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○森寺藤左衞門池田家興立の事竝森寺政右衞門武勇の事

卷之二十三 第17話 · 段落 3 · NDL 1078984 361コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

池田の長臣森寺秀勝は伊勢の赤堀郡萩の城主なりしが、伊勢の國司に攻め落されけり。藤左衞門秀勝其比幼かりしを、母抱きて落行き、尾州織田信秀の許に隱れ居たり。護國公池田信輝朝臣の母君を養德院といひしが、江州より落ぶれて淸洲に來りしを、藤左衞門、瀧川一益に賴みて信長の乳母に出せしに、信長、護國公と同年なれば、遊び相手となりて年を送れり。故有りて護國公出奔し給ふ時、森寺も同じく打連て、赤堀に匿れ居る事五年に及べり。斯くて信長星崎の城を攻めらるゝと聞きて、森寺商の體にもてなし、淸洲の城の厨に行きて、物具を求むべき支度せばやと存ずれども、金も銀も候はず。あはれ少し許給はり候へ、と護國公の母君に潛に言ひければ、我も金銀の有らばこそ。此なりとも、とて綾の小袖三つ出して森寺に與へらる。森寺急ぎ出て銀錢六十に換へたり。古き物具を買ひたれども、冑無ければ茜にて染めたる布を鉢卷にして、星崎に向ひ給ひしかば、信長悅びて護國公を元の如く使はれけり。藤左衞門子を政右衞門といふ。勝れたる荒者なり。政右衞門忠勝十八歲の時、何れの所にて有りしや知らず。護國公の前に有りし時、稻葉伊豫守一徹の許より、備前の陶とて德利を贈られけり。政右衞門見て、是は贋物なり。あらぬ物を謀りて豫州さぞ笑ひ候べし。惡き奴にこそ候へ。あはれ伊豫守が目の前にて打碎きたらば快く候べし、といふ。護國公、汝が詞無禮なり。豫州が目の前にて碎くべくば碎いて見よ、との詞を聞くより座を立ちて德利を懷に入れ、伊豫守の方に行きたり。斯る事とは知らず對面せられしに、政右衞門德利を取出し、備前にて燒きたる物には候はず。贋物なれば返し申す、と言ひも敢ず、柱に中てて打碎きつと走り出でければ、一徹、それ留めよ、と下知せられしに、駈延びて歸りけり。護國公は、政右衞門が面魂、一定伊豫守の許にて打碎くべし。危き事なり、とて門內に待ち給ひし處に歸り來り、云々せし證は此なり、とて德利の缺けたる口を取出し、見せ申して後申しけるは、凡そ君となる身は一言も謹あるべき事に候。先に申せし詞は無禮なれど、碎くべくば碎いて見よ、と張合をかけられ、若き男の骨を刻まるゝともさて止むべきや。遁れ得て歸りしは幸なり。已後を謹み給へ、といひけり。政右衞門美濃の竹が鼻に居し比、木全又藏といふ士、緣有りて森寺が許に居たり。
又藏が父は五右衞門とて大剛の者なりしが、或時野伏一揆しけるに、木全山の中に分入りしかば、それは如何に、と問ふ。中へんに構へ候、と答ふ。程なく一揆の打通りける所を、山の上より㗢と喚いて突いて懸りしかば、小勢を大軍なりと思ひ、一揆散々に敗北しければ、木全が鎗にて中へんに構ふると世に言はれし人なり。
政右衞門、又藏に心を合せ、同國高木何某を討たんと計りけり。又藏竹が鼻の竹林に隱れ待ちしに、高木夜中に打過ぎける處を、走り出でて唯一鎗に突殺し、從者共を追散してけり。高木が子二人父の仇報いんと聞えしに、政右衞門或年江戶に行く時荒井に宿せしに、敵道に待つと聞きて舞坂に行く。道の程三十間許も隔てて、凡そ八百人許待ちかけたりしに、政右衞門靜々と乘通りしに、敵更に取合はねば、政右衞門從者五六人にて馬を引返し、仇の前に乘行き、是に待ちたるは高木に候や。斯く申す森寺を仇にて討たんとや。唯今何とて討ち候はぬぞや。さらば參り合はん、と大音にいへども物いふ人無し。政右衞門嘲笑ひ、など討候はぬぞや。此後我を討たうとは存じも寄り候はず、と罵りて打過ぎ、江戶に赴きけり。高木は訟へて政右衞門を討たん、と申しければ、何方にてもあれ討候へ、と許されしが、又政右衞門にも嚴しう防ぎをして、仇に討たれざるをもて勝にせよ、との事なりければ、常に鐵炮五挺に火繩に火をつけ、弓十挺に箭を關ひ、鞘外したる鎗五本、士三十人打連れけり。秀吉の時出仕しけるにも斯くの如し。刀をも殿中に携へよ、と許さる。伏見の城を築かれし後、諸大名出仕有りしに、政右衞門に、今日は出仕すべからず。仇の必ず窺ふべき、と言ひしかども、政右衞門、苦しうも候はず、とて出仕す。秀吉の居間の次まで刀を每日も携へけれども、其日は從者に持たせ置きて、廣間に仇の有りける中を打通りて、事故無く退出しけり。後慶長四年四月に參河にて病死したりけり。