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酒井

第五 · 段落 8 · 780522 3コマ Lから

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地名 4 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

河内守源重忠は、德川の家の子故雅樂助廣親が五代の孫、雅樂助政親が嫡男なり、先祖の事精しく左衞門尉忠次の傳にあり、政親安祥殿より、德川殿に至て、三代の間に仕へて、家の事、大小となく司る、安祥殿うせ玉ひて、岡崎の贈大納言家、伊勢の國に渡り給ふ時、御一門の人々、譜代の御家人等と謀て、再ひ岡崎の城に迎へ納れ參らせ、安部石川の人々と議して、水野右衞門大夫忠政の娘を迎へて、北の方となし參らす、程なく若君御誕生ありしかば、德川殿の御事岡崎殿の御悅淺からず、御家人の中を選はれ、政親御竹刀を獻り、安藝守清兼、石川御蟇目の役に候す斯て天文十二年の秋德川殿の御外祖右衞門大夫殿、卒去の後、下野守殿、父の跡を繼き、程なく尾張の國の織田に、心を合て、今川殿に背き玉ふよし、聞えければ、岡崎殿大に驚き給ひ、廣忠むかし今川の力を賴みて、本國に歸る事を得たり、されば今に彼の芳恩を忘れず、然るに、今川に向ひ弓を挽き、矢をはけん者の妹、廣忠が妻にせん事、本意にあらずとて、同き十三年八月、北の方いたはらせ給ふこと、ありしかど、忽に刈屋の城に送り返させ給ひけり、政親心に思ひけるは、若君姫君、渡らせ玉ふ御事なり、如何でかくつれなうは、おはすべき、今川殿の好み、絕たじとてこそ、出し參らせ玉ふなれ、よし〱後日の御勘當は蒙るとも、此御所勞の最中に、返し參らする事やあるべきと、思ひ定め、おのが家に入れ參らせ、よきにいたはり奉り、若君姫君をも、迎へ入れ、御名殘をしませ參らせ、御心地たいらがせ玉ひし後、士餘多つけて、刈屋の城にぞ送り奉る、かくて城のほとり十八町といふ所に至らせ玉ひし時、若君より御送りの爲に、參らせられし侍、淺羽金田二人を御輿のほとりへ召れ、自ら思ふ所あれば、此所に捨置て、おことらは、とく岡崎へ歸るべし、竹千代殿の御事は、人々を賴み思召し、返す〱も、かの御名殘こそをしけれと、御淚と共に仰せければ、二人謹て承り、こは思ひも寄らぬ御事を承り候ものかな、如何で此所には、捨置き奉るべき、只御館へこそ渡らせ玉ふべけれと申す、其時泣く〱仰けるは、みづからが兄にて、まします下野守殿、さる腹あしき御人にて、おことら一人も、生て歸らん事、叶ふべからず、自らこそ、思はずも、岡崎殿に別れ參らせども、竹千代殿おはしませば、其方ざまの人々をば、如何ばかり、いとほしと思ふぞや、また竹千代殿、めてたう生立ち給はん後、さすが遠からぬ間なり、なとが終には、下野守殿と、親しうならせ給はざらん、夫に今おことらが、命失はれば、永き恨みの種となり、親しうなり給はん事、如何にも叶ふべからず、自らが方ざまにて、竹千代殿の御爲に、したしうも又便りにも、御覽ずべき人は、下野守殿斗りにこそおはすれ、おことらを、いとほしう思ふばかりにも、あらぬものを、たゞ自らに任せよと、泣きくどかせ玉へば、二人の者、おのれらが命は、初めより、わが君に參らせ置きぬ、をしむ所いさゝかも候はず、去りながら御行末を、遠く思召し謀らせ玉ふ御心を、空しくなさせ參らせん事、げにも若君の御爲しかるべからず、此上は如何で仰に背き奉べきとて、此所の里人等を召集て、是にましまそ御方は、下野守殿の御妹君にて、渡らせ玉ふぞ、汝等、御輿よく仕て、刈屋の御舘へ、入れ參らせよと、云ひふくめて立歸る餘りに御行方の覺束なさに、行きもやらず、五六丁が程を隔てゝ遙かに御跡を見送る、案の如く、信元の兵、混甲百騎ばかり、此方に向ひ、鞭鐙を合て馳來る、送り參らせし輩、稀有にしてこそ遁れたれ、松平紀伊守家廣も、岡崎殿の北の方の御姉に、添ひしかば是も刈屋へ返しけるに、送りし者共、一人も殘らず討れてけり、されば女にて、わたらせ玉へども、海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、御母にてましませば、御思慮の程いみしく又政親が計ひ情ありとぞ申ける、同き十七年三月十九日岡崎殿、今川の人々に同く、織田彈正忠信秀と、小豆坂に戰ひ玉ひし時、手合の戰に、政親、先懸して、三郞五郞信廣の郞等、鳴海大學助と云ふ大剛の兵を討取れば、敵の軍敗れにけり、同き四月十五日岡崎殿に叛き、信秀に從ひし松平藏人信孝、岡崎に押寄す、政親、石川、大將にて明大寺の邊に出向ひ、戰て信孝を討取る、程なく岡崎殿うせ玉ひ、德川殿、駿河國に留められ玉ひしかば、政親等岡崎を守て、若君御成長の程を待つ、義元討れ玉ひし後、德川殿岡崎の城に歸り給ふ、斯て永祿四年の春、同國吉良義昭の一族荒川甲斐守義虎、吉良を叛き、政親に因つて、德川殿の御方に參り、おのが城に、政親を迎へ入る、政親荒川の城を守り、西尾の城を落して、西尾の城に入り、東條の城を攻て、牧野が新郎二郎等須瀨宮內を討つ、義昭終に降人に成て參りしかば、西尾の城を以て政親にたぶ、德川殿御家人に城賜りし始とぞ聞えける、伊東法師が記、家忠日記增補同し但し御年譜には永祿五年とあり、今年の暮、尾張國織田上總介信長、宗徒の家人等を召集て、義元既に我が爲に討れし後、其子氏眞我が勢にや恐れけん、敢て戰ふに及はず、松平藏人元康、猶庭弱の者なり、速に豫參降人とこそ成べけれ、然るに今本國に歸て、兵を起し、御方の軍と戰ふ事、年を歴ぬ、彼が有樣を傳へ聞くに、弓矢取ては、當時無双の若もの、戰の勝負いつ决すべしとも見えず、されば信長が軍勢、丹下、鳴海、沓掛、廣瀨、擧母、梅坪、大高、刈屋、岡、寺部、長澤、鳥屋が根等の城々を守て、兵を失ひ、粮を費す事、謀少きに似たり、所詮信長は元康と中直りして、此城々に籠め置し、軍勢を召返し、上方を打平げ、元康は又東國を從へんに、一人の力に及ふべからざらん時に至ては、互に助合んと思ふは如何にと宣へば、御諚、誠に然るべう存ずと、皆一同にぞ申ける、さらばまづ其由を云送りて見よとて、瀧川左近將監一益、其旨を傳へ、笠原新右衞門を使として、石川伯耆守が許に、此由かくと云送る、德川殿も、宗徒の人々、召て評定あり、各一同に申けるは、當家もと今川の一族被官と申にても候はず、一とせ、故殿いまだ幼き御時、此城を出させ玉ひしに、御供の輩、御所緣に付て、義元を賴み參らせ、彼の御加勢を乞て、再ひ還し入れ奉りしより、此かた、兩家の好み日々に深し、然るに故殿うせ玉ひし後、義元なさけなくも、君を駿府に押留め參らせ、御領悉くに押取り、常に御家人等を駈り催し、こゝかしこの先陣打たせ、彼の家の爲に、命を落し家を亡せし輩、いくらといふ數を知らず、義元又うたれしより此かた、既に三年に及ひて、君も此處彼處の御合戰に、一日片時も安き御心もましまさず、是れ偏に當家の爲のみにも候はず、しかしながら、氏眞の方人して、一度信長と勝負决せん爲に候はずや、それに正しき義元の子にて、まします氏眞、父の仇を報ぜんと思ふ心なし、たとへ氏眞こそ愚がにましますとも、今川家にして十八人と聞えし輩は、など此恥を存ぜざらん、是も又一人として、此事を諫むるものや候、たま〱君獨り、折にふれて、勸め玉ふ事を、用ゐられぬだに候を、何ぞ深く恨み參らせて、此年月の戰に、一度の加勢をも、賜らざる、かれと云ひ是といひ、彼家亡ふべき時、既に至りぬ、亡ふべき家の方人して、當家累代の功、忽に空しからん事、口をしかるべき次第なり、然るに、いま織田殿かく多年の恨を捨て、隣國のよしみを結ばるゝ事、且は當家の幸、且は當時の譽なり、速に御同心の由を、仰せらるべきにて候とて、伯耆守が許より、同心の返答をぞしたりける、信長斜ならず悅ひ、元康が心をば知らぬ、此上れ彼の舅の下野守信元の中立よかんぬとて、頓て御對面の儀、行はる、織田殿見參のしるしなればとて、長光の御太刀に吉光の御刀添へて、引出物にぞ成されける、織田殿と御和睦ありし事、いづれの書にも詳ならず、此說伊東法師が記に出づ、氏眞此由を傳聞き、以の外に怒て、竹千代君を先として、御人質御家人等のも、共に悉く失なはるべしと聞ゆ、此事また大方ならぬ難義なるに、雅樂助政親、此事に於ては、某が如何にも計ふべし、御心安く思召候へと申て、御家人の中を選みて、成瀨藤六郞を使とし、氏眞無双のきり人三浦右衞門佐に就て、其旨趣を陳ず、抑亡父廣忠が時より、元康が身に至るまで、故治部大輔殿の御情を蒙て候事、如何でか忘れ候べき、さるに依て、御被官の例に准し、旣に嫡子竹千代丸を質として、參らせ候ひぬ、元康たとへ義元朝臣の御情を忘れ候とも、如何でか父子の憐れを知らで候べき、又元康こそ、義元朝臣の御情をも忘れ、父子のあはれを知らで候とも、家人等が、質として、參らせたる、或は妻子、或は兄弟を捨て、如何で元康に隨ひて、屋形には背き奉るべき、されば家人等が背き奉らざらん內は、元康たとへ不道を存ずるとも、誰を賴て、御うしろめたき事仕るべき、依て此條を以て、元康が二心なきを知召し極めらるべきものか、爰に元康、年來日頃義元朝臣の舊恩に、報ひ參らせん事を、思ふといへども、一身の微力を以て、其本意を達し難し、先考の御吊の爲に、御合戰あらんには、必御先を承るべきのよし、望み請ふ事、度々に及ひ訖んぬ、かるが故に、元康は敵の方人等と、怨を含み仇を結んで、日々夜々に戰ふ事、既に三年、然りといへども、いまだ一度の御加勢をも給らず、又御吊の御合戰、いつあるべしとも、其期を知らず、されば瓩弱の元康、只一人わつかなる勢を以て、多くの敵の間に立つて、御吊の合戰あらん期を待ん事、叶ふべからず、暫く信長が請に依て、兵を休め力をも養ふ事にてこそ候へ、今日にも尾張國に向て、御勢を出されんには、元康御先を懸、けて御敵を亡し、舊恩に報ひ參らせんと、先に申せし事、違ふ事あるべからずと申ければ、氏眞も誠に深き謀なりとて、其心とけてけり、幾程なくて、又德川殿を恨むこと起りて戰やむ事なし、竹千代殿恙なく歸り玉ひし事は、松平周防守康親が傳、又附錄の石川伯耆守數正が傳に詳なり、去程に氏眞は、舅の武田入道信玄の爲に、駿河國を破られて、遠江國掛川の城に落來り、德川殿と戰ひ、城既に落つべきに至て、政親並に石川日向守家成に就て、城中の者共の命乞ひ、當國をさけ渡して、相摸國にぞ落玉ふ、永祿十二年の事なり去りし永祿六年一向專修の門徒等が叛き參らせしに、荒川甲斐守義虎、逆徒等に組みす、政親、西尾の城に在て、野寺の敵と戰て、終に荒川をも打亡す、かくて政親衰へて、いたはる事ありと聞召し、德川殿大に驚かせ玉ひ、平岩七之助親吉に仰せて、醫療の事を謀り、自もその家に入らせ給ひ、申置く事あらんには、聞召すべき由を仰らる、政親嫡子與四郞重忠、次男與七郞忠利を御前に召し、政親何事をか申べき、君の御惠みを蒙て、此二人の子息等が、奉公の節を致さんにおのが器量に隨て、其深淺こそ候はめ、忠を盡し義を盡さん心は、などか同し心にはあらざるべき、只此事をこそ存じ置け、これより外、君に向ひまゐらせて、何事をか申べきと申て、天正四年六月六日にこそは卒しけれ、
神谷の何某、御家人に召れし初、政親に行あひて、路次の禮をいたす、政親はかくとも知らで打過たり此後神谷、政親にあひて、頗る不禮をあらはす、德川殿此よしを聞召、神谷が常の振舞を試させ玉ふに、心直にして行ひ正しく、奉公の勞おこたらず、かゝるもの御勘當あらんには、御家人等皆身を危きものに思ふべし、又政親が讒したりなど思ひなん、さりとて其儘に召仕れんには、家の司が威勢日々に盡て、事また治るべからず、せんずる所、彼に所領賜らん時、かねての約に違はゞ、一定我家を去るべきものなりと思召て、八百石を賜はんとの御下文をなさる、政親御前に參りて、神谷所領賜るべしと承る、かれがふるまひ、よのつねならず、過分の所領、賜ふべきものなりと申す、彼は、をこの振舞する男と聞けば、八百石の所領賜らんと思ふなりと仰せらる、政親大に驚き、何條さる事や候べき彼等に所領約の如く賜らざらんには、此後誰かは出て仕ふべき、たゝ過分の所領たまふべき者なりと申、德川殿汝が申す所心得ず、元康が家にして、汝等に向て無禮せんもの、誰があるべき、彼に賜ふ所、約の如くならざらんには、彼は一定、我家を去るべしと思て、斯は計ふなりと仰せられしかば、政親愼み承て、不肖には候へども、君の御恩に依て、かゝる身と成て候へば、御家人の中に、誤ても一人膝を屈め手を突かぬ者は候はず、夫に此神谷が、心强く無禮を顯はす條、彼もし君の御恩に感してだに候はんには、必御大事あらんとき、身をも家をも忘るべき者と思ひなして候、平に所領多く賜ふべしと申す、さらば如何程をか賜らんとあれば、二千石をや賜ふべきと申、たゞ約のまゝ、千石をこそ賜ふべけれと有しに、政親望み乞ふ事やまず、宿老の人々、さらんにおいては、千五百石をや、賜ふべきと申ければ、やかて神谷を召してありし事ども一々仰下されて、千五百石の領を宛行はる神谷感淚にたへず、御前を立て直に政親の許に行向ひ、此程の無禮を謝す、其後高名度々に及び、終に足輕大將を承る、德川殿常に此事を執政の人々に語らせ玉ひ、汝等政親が心を心とすべきものなりと仰られしよし、ある書に出つ、
嫡子河內守重忠始の名は與四郞父に繼ぐ、天正の八年五月、田中の城の邊にて、麥からせて歸り玉ふに、敵持舟の城を出て、御後を襲ふ、重忠宗徒の人々と同しく、返し合せ戰ひ、首餘多取て引返す、天正十八年、小田原を攻られしに重忠先陣を承る、此年關東に移玉ひしかば、武藏國川越の城を賜ひ、一万石子息兵衞大夫忠世も此城の邊にて、所領を賜ひ、五千石武藏守殿に附られたり大相國家の御事慶長六年二月、上野國厩橋の城を三万三千石重忠に、同國那波の地を一万石忠世に賜ひ、此時より雅樂頭同十年、忠世が在京料として、近江國の地を賜ひ、栗太日野野洲等の地五千石なり十四年二月、忠世又上野國善養寺の地を賜ふ、五千石、合二万石を領す大坂の軍起しに、重忠は江戶に在り、忠世は將軍家の先陣して、宗徒の人々、引率して馳向ふ、再ひ兵起し時、其身は御陣に在しかば、子息阿波守忠行に、手の兵つけて軍させ、首三十を切て獻る、重忠卒して、忠世家を繼く、其後、御加恩度々にて、所領餘多知行し、十二万二千石四位の侍從に昇進し、寛永十三年三月十九日六十五歲にて卒す、
寛永日記に曰、寛永十一年の七月、將軍家御上洛あり、酒井雅樂頭忠世、御留守の事を承り、西城に移る、此月、御厨より火出て、忽に御殿の上に燃うつる、城中といひ、御留守といひ、ありあふ大名小名、內に入る事を憚る、一族西尾丹後守等馳集りて防かんとすれども叶はず、城中悉く燒け訖んぬ、忠世大に恐れて、速に城中を去りて、東叡山に入て蟄居し、早馬を參らせて、此由を京都に告く、將軍執政の人々を召して、西城の火災あに忠世が罪ならんや、我たとへ留り守るとも、如何で天災をば逃るべき、たゞし忠世が速に城中を去りて、東叡山に遁れ入る、其意趣不審といひつべし、忠世もし如何なる罪に處せらるゝ事ありとも、何ぞ身の過を謝せんが爲、守る所の城を捨て去るといふ事や有べき、是頗る士たらん者の守る所を知らざるに似たり、汝等急き此由を傳ふべしと仰ければ、忠世また其罪を知りて、更に恐怖し、御下向の後も、久しく東叡山に蟄居して、南光坊の僧正、さま〲に訴へ申に因て執政の職を召放され、御金奉行となされしと云々、其子阿波守忠行家をつぎ、父が卒せし年十一月十七日三十八歲にて卒す、嫡男河內守忠清父につぎ、十万石二男日向守忠能父が遺領を分賜ふ、二万二千石寬永十八年忠清從四位下同き廿年、侍從兼雅樂頭、慶安四年、左少將に任し、承應二年の比より、老中と共に奉書の連署あるべしと仰下され、寛文三年二月八日、所領加玉ひ、三万石連署の事御免あつて、大老の職に任し、延寶八年正月十二日、所領加給ふ、二万石〇凡十五万石を領す嫡子河內守忠明從四位下侍從に至る、二男下野守忠寬、
備後守源忠利は、雅樂助政親が二男なり、天正の十二年、蟹江の城を攻らる、其時忠利いまだ與七郞と名乘て、高名をぞ極めたる、關東に移り玉ひし時、武藏の河越の庄にて所領を賜ふ三千石關が原の戰には、子息忠勝、二人共に中納言殿の御供して、軍にはあはず、明れば慶長六年、駿河國田中の城を賜ふ、一万石同き十一年叙爵して、備後守となる、十四年九月廿三日、河越の城に移る、二万石寛永四年六十九歲にして、十一月十四日に卒す、
ある書に曰く、或時大御所御前の人々に、御物語ありしは、酒井備後守が所頭の地に、備後といひし百姓あり、忠利が家從等、彼百姓を召して、地頭の御受領を犯し、名のる事、然るべからず、速に改め名のれと云ひしかば、彼の者大に驚き歎き、某年々の年貢、人より先にまゐらせ、月々の公役、遂に怠る事なし、然るに今かゝる難義を承るこそ不運なれ、某此所に久しく住て、代々備後と名乘、ほとりには隱れなき者なり、今さら改め名のらん事叶ふべからず、たゞ殿の御受領を改めらるべきにて候といふ、忠利是を聞て、年貢よく納め、公役怠らず、神妙の至なり、さらば汝は此所の備後にこそあれ、たゞ其儘に候へと許しけり、凡世のおろかなる人は、よしなき事に人を苦め、おのが威を立んとし、無益の事を務めて、有用の事を失ふ、此忠利は天性和かにして愛深く、其智また少ならず、彼れ後必榮ゆべき者なりと仰られしと云云、是を見て、忠利の事、推て知るへし、
嫡男讃岐守忠勝、慶長十四年十一月叙爵、同十九年下總にて所領の地賜ひ、三千石元和六年、大納言家に附けられ父卒して家を繼く寛永九年の春、大相國家薨し玉ひ將軍家世を知り玉ひしかば、忠勝が年來輔佐の功を賞し玉ひ、同九月十九日所領の地を加賜ひ、河越の邊にて二万石を賜ひ、此後加恩度々にて、十万石にいたる、同十一年若狹國小濱の城に移る、十二万二千五百石餘、越前下野の地を合せて正保の比、大老の職に補せられ、四位の少將に昇進し、年老いぬれば、明曆二年五月廿七日に致仕し、萬治三年入道して、空印と號し、寛文二年七月十二日、七十六歲にして卒す、嫡子備後守忠朝、寛永十二年、初て少老の職を受て、其職に任せしが、如何なる故にや、十五年十一月廿二日に、職ゆるされて、此後は病と稱し、出仕をも止めければ、末子修理大夫忠直、父が讓りを請て家を繼く、大和守源忠國は、はしめは越前守讃岐守忠勝の嫡孫にて、備後守忠朝が男なり、寛文八年叔父修理大夫忠直、望み請て、所領の地を分ち與ふ、一万石延寶八年十一月十九日大番の頭となさる、