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眞田
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 真田昌幸 38徳川家康 30真田信之 26上杉景勝 17豊臣秀吉 15真田信繁 15真田幸隆 9北条氏直 9武田晴信 7貞秀親王 6滋野貞主 5清和天皇 4大谷吉継 4真田信吉 4真田信利 4海野幸恒 3惟彦親王 3村上義清 3依田信蕃 3本多忠政 3真田信政 3滋野家訳 2嵯峨天皇 2仁明天皇 2
지명 上野沼田城 14信濃国 13上野国沼田 9信濃上田城 8越後国 7上野国 4関東 4摂津国大坂 4上野名胡桃城 3信濃国川中島 2甲斐国 2越後新発田城 2上方 2信濃国海野白取荘 1信濃国真田 1信濃国更級郡 1上野箕輪城 1三河国長篠 1武蔵国 1上野国碓氷峠 1信濃海津城 1相模国 1伊勢国 1尾張国 1
其系圖に曰く清和天皇の御子貞秀親王と申しまし〱て、信濃國海野白取の庄に下り住ませ給ひ、薨し給ふ後に、白取明神と崇め、また滋野天皇と申し奉る、親王の御子、滋野を以て姓とす、海野小太郞幸恒と申すは、此親王の御末なりと云々、皇胤紹運圖等を考ふるに、清和の皇子に、貞秀親王と申し奉るを見ず、また新撰姓氏錄三代實錄皇胤紹運圖公卿補任等を按するに、滋野宿禰は神魂命五世の孫、天道根命の後なり、桓武天皇延曆年中に、滋野東人が子尾張守家譯滋野宿禰姓を賜ふ、其子貞主、嵯峨天皇弘仁十四年正月、父家譯と共に、滋野朝臣の姓を賜る、又貞主、平城嵯峨淳和仁明文德の五代に仕へ、宮内卿正四位下兼相摸守に至て、仁壽二年十二月十日六十八歲にて卒すと云ふ、或は清和の朝まで仕へて、貞觀二年十月廿二日五十七歲にて卒すとも云ふ、また貞主女子二人あり、一人は仁明の皇子本康親王の御母、一人は文德の皇子惟彥親王の御母なり、此惟彥と申し奉るは、清和天皇の御兄なりき、されば貞主兩代の親王の外祖なりければ、一家の繁昌、世に並びなく、自らも又當時文章の譽ありて、天長八年勅を受けて、秘府略一千卷を撰めり、思ふに海野が祖、此貞主に出たるにや、また貞秀親王と申すは、本康惟彥等の親王の御事を、かくは傳へ誤りしも知らず、〇平家物語源平盛衰記等に、海野小太郞幸氏が事を載す、東鑑に記るせる事、殊に詳なり、幸氏後に左衞門尉に任ず、是乃ち伊豆守信幸が廿二代の祖なり、
幸恒廿七代の孫小太郞幸隆が時に至て、眞田の庄に住せしより、始て眞田彈正忠と名乘る、初め幸隆が父海野左京太夫幸義、同國更級の住人村上義清と戰て、討たれぬ、幸隆所領を失て、長野信濃守を賴て、上杉の家人なり上野の國簑輪の城に在り、甲斐の武田大膳大夫晴信、信濃國を打ち從へんとて、幸隆を招て、本國に返へし納る、幸隆大に悅ひ、如何にもして、父が仇を報ひ、又如何なる忠をも、顯はし武田が恩に報ぜばやと思ひ、天文十五年の冬、村上義清をたばかつて、彼が宗徒の侍五百人、おのが城に引入て、一人も餘さず、討つてけり、村上終に武田が爲に滅され、晴信信濃を從へしこと、幸隆が功、莫大なり、甲陽軍艦に詳なり同き二十年、晴信入道して、信玄と號す、幸隆も同く入道して、一德齋と號し、年積て六十二歲、天正二年五月十九日に死す、嫡子源太左衛門信綱三百騎の大將と云二男兵部昌輝一に幸連と云五十騎の大將兄弟ともに天正三年五月廿一日長篠の合戰に打死す、三男安房守昌幸、四男隱岐守信尹と云ふ、伊豆守信幸は、此安房守昌幸が嫡男なり、昌幸初は眞田源五郞と申て、晴信入道に近く仕へ、近習六人の中に、選み入られ、又足輕の大將承り、武藤喜兵衞と改め兄が打死したりし後、其家を繼き、信濃國上田の城に在て、眞田安房守とぞ名乘りける、此時三万八千石計りの地を領したりと云ふ天正十年、武田が家滅てのち、織田殿に降參して、本領を安堵す、同き六月、信長又討れ給ひ、上杉彈正大弼景勝、又當國に發向すと聞えしかば、信濃國の國人、眞田蘆田小笠原を始て、永く上杉が被官たるべしと、起請文を書て、越後國へぞ參らせたる、同き六月十八日、景勝信濃に發向す、眞田を始て、國人等皆上杉が陣に至て見參す、斯る處に、北條左京大夫氏直、武藏上野を經て、信濃國を隨へんとて、碓氷の峠を押渡て、是も信濃國に入る、眞田等また北條が多勢なるをや、賴みけん、氏直に心合せ、うら切して、景勝うたんと謀りしに、景勝かくと聞くよりも、海津の城に住したる高坂源五郞が首切て、北條が陣に送りければ、眞田等はや顯はれぬと、氏直の先陣して、川中島に向つて、上杉と戰はんとす、上杉其勢四千餘人、四千三百餘と申すなり北條が五万餘騎に向て、五万五千人と申也戰はんとぞ進みたる、上杉が少勢あなどり憎しとや思ひけん、北條爰より引返し、甲斐の國に打入て、德川殿と戰ふ、今年七月の半より、十一月に至るまで、大小の戰七十餘度、北條一度も利なくして、德川殿に、中直りし、相摸國に引返さる、眞田は軍半より、又北條に背き、德川殿に從ひ、本領安堵して、上野國沼田の城を始とし、城八箇所攻取て、此年十二月より明年に至て攻取る所なり嫡子源三郞信幸に、沼田の城をぞ守らせける、即ち伊豆守なり同き十二年、德川殿北畠を助けて、伊勢と尾張との際にて、秀吉と戰ひ、敵の勢十万餘騎、僅なる御勢にかけ負け、德川殿の御勢八千人と申也是も一度の利なくして、秀吉終に北畠と中直りす、此時、北條約に背き、德川殿に加勢參らせず、明れば十三年の春、北條德川殿に使たて、抑むかし兩家のよしみ結ひし時、武田が領せし國々を分ちて、甲斐信濃は德川殿、上野は氏直領せんと約し訖んぬ夫に信濃の眞田が、上野に亂れ入て、沼田の庄を取て、押領する事、甚奇怪と云つべし、すべからく早く其狼籍を止めて、かの沼田の庄を以て、氏直に附せらるべし、然らばまた氏直も昔の約を守て、此後秀吉と戰ひ給はん時、八州の軍勢を催し、御勢を助け參らすべきにて候とぞ宣ひける、德川殿此由を聞し召し、さらば眞田沼田の城を去て、北條に附け與ふべしと下知し給ふ、昌幸承り、この沼田の城と申すは、故主武田殿も賜はらず、又德川殿よりも賜はらず、昌幸が自らの武勇に依りて、攻め取つたる所なり、如何でたやすく、人手にや渡すべき、北條望み給はんには、御勢を賜て攻取らるべうもや候と、仰せられ候へと、答へ參らせて、上杉の家人須田相摸嶋津淡路に就きて、景勝に申しけるは、昌幸むかし北條に從ひ屋形に背き參らせし事、旣に本意を失ひ、後悔また及ひ難し、昔の罪を宥められ、今の難を救ひ給はんには、子息源次郞幸村して、永く御家人の列に隨はしめ、また侍百騎、常に御陣に從つて、御馬の草、苅らせ候ひなん、况んや昌幸が二心を存せず、微忠を抽て候はんことをや、此誓たがふ事あるべからずと、牛王寶印の裏を以て、起請文かきて奉る、景勝折ふし越後の國新發田の城攻めて居たりしが、此由を聞て、眞田めが、初め景勝に叛て、北條に隨ひ、北條見侮つて、家康に降り、今家康を恨て、寄る方なく、又景勝を賴むこと、よく〱せん方や無るらん、凡そ亂れたる世の習ひにて、彼を去り、是に附き、是を背き、彼に隨ふ、其例少からず、窮鳥懷に入る時は、獵師も是を憐むと云ふ本文あり、今彼が前惡を憎て、此急難を救はずんば、かれ忽に亡びなん事も、不便なり、又家康が武勇に恐れて、景勝事を左右に寄せ、眞田見捨てたりと云はれんも、口惜しき次第なり、いで〱景勝助くべしと申せとて、使をば返へされたり、眞田既に背きぬと、聞えしかば依田右衞門佐信蕃1、手勢千五百、小諸の城を打立て、矢澤の城に押寄す、矢澤但馬出向つて戰ひ、依田負軍して引返へす、景勝新發田を去て、河田本城を大將として、越後信濃の軍勢都合六千五百人、上田の城に差遣す、又小笠原が河中嶋にや打出てんと、藤田能登守を大將にて、越後の勢千三百人、猿馬塲の此方に陣を取る、去程に德川殿の御勢、近付きぬと聞えしかば、昌幸まづ越後の軍勢を、上田の城に籠置て、我身は手勢九千餘人、小野山に陣を取る、丸子熱子矢澤戶石浦野伊勢山に軍勢分ち戰て、終に一度の不覺なく、又北條の軍勢、沼田の城を攻めたりしが、嫡子信幸、戰て寄手の勢を打破る、德川殿の御勢、利なくして、上田の城より引返せば、越後國の軍勢も、本國にぞ歸りける、昌幸大に悅ひて、二男源次郞幸村、十八歲になりけるを、越後國に參らす、景勝やがて信濃國屋代の鄕一千貫を幸村に賜りたり、幸村いまだ年若く候とて、矢澤但馬を代官とし、海野望月丸子が勢數百騎を從かへさせ、常に越後國に參らせ置く、斯て天下悉く關白に歸しぬと聞えければ、昌幸又かの家人大谷刑部少輔吉繼に、案內を通し、殿下に伺候すべきよし、密に望み申けり、同き十七年十一月2、景勝關白に見參の事ありて、再ひ都に登りしに、其隙を伺て、幸村を呼び返へし、關白家にぞ參らせける、景勝大に怒て、かの源次郞幸村を、急度返へし給らんと、頻に訴へ申されしに、殿下さま〱に御歎きありしかば、景勝力及ばずして、仰にこそは隨ひけれ、此年關白家、勅命を傳へて、北條父子、參內の事を催さる、氏政氏直、むかし德川殿と約せし條を述て、上野國沼田の城を賜てこそ、上洛には及べけれと、望み申されたり、昔兩家の好み結ひし初、私に約したらん條、今なんぞ天裁を仰くべき、去ながら秀吉密に計らふべき樣ありとて、まづ眞田して、沼田の城を去らしめ、かの城に替へん地は、德川殿より宛て行はるべき由を仰せらる、德川殿聞召し、信濃國の御領にて、沼田に換ふべき所をば、眞田にぞたぶたりける、氏直頓て猪股能登守範直して、沼田の城を請取らしむ、爰に沼田の庄に名胡桃と云ふ城あり是をも猪股取らんとす、眞田聞て關白の仰にも、沼田の城、參らせよとこそ承るれ、名胡桃まゐらせんこと、叶ふべからずと云ひたりしに、何でう沼田の庄にあらん城、請取らざるべうやあるべきとて、軍勢を差向て、襲ひ取る、關白この事を深く咎め給ひてより、北條終に亡ひにけり、
- 依田右衞門佐信蕃 — 지면 그대로. 依田信蕃은 통설 天正11.2(1583) 전사라 天正13年 上田合戦 때는 없음. 본서 f026.p003은 그 전사를 天正13.9.23으로 적음
- 同き十七年十一月 — 지면 그대로. 景勝의 上洛은 통설 天正14.6과 天正16.5. 天正17.11 上洛은 미확인
北條亡ひし年、德川殿關東に移り給ひ、上野の國は御領となり、信濃國をば、關白家へ參らせらる、東國にて、眞田に賜ひし地の代り、德川殿又候ふ沙汰あるべしとありければ、元の沼田の地、眞田に返し與へらる、嫡子源三郞信幸、初より此所を領せしに依て再ひ沼田の城に移り、德川殿の御被官となりぬ、昌幸が上田の城、初より德川殿の御領の外なれば、元の儘にぞ賜ひける、其後源三郞信幸、叙爵して、伊豆守に任じ、本多美濃守忠政が娘を妻とす、忠政か妻は岡崎殿の御娘なれば、信幸德川殿の御曾孫婿と成れるなり、源次郞幸村も、左衞門佐になされて、大谷の婿と成てけり、慶長五年、德川殿、奧の上杉討たるべしとて、御下向あり、眞田父子兄弟、催促に隨ひ、打連て向ふ、下野國宇都宮の邊り、犬伏と云ふ所に至る、石田大谷等が牒狀、此所に到來せり、安房守是を讀み終て、まづ二男左衞門佐が方に差出す、幸村兄に向て色代す、信幸たゞ夫れにて見候へ、如何なる事にやあらんと云ひければ、其時昌幸されば此程人の申せしに違はず、上方の軍又起れり、昌幸御方に參るべしと、秀賴の仰を蒙りぬ、扨おことは、如何にや思ふと問ふ、伊豆守是を聞て、君は年頃德川殿と、よからぬ御中にはべれば、秀賴公の仰にや隨ひ給ふべき、左衞門佐は、又大谷に、むすぼれたり、是も定て、上方へこそ參るべけれ、信幸內府の恩蒙ること年久し、まして本多が娘にあひなれ、所緣に付ては、疎からぬ中となつて候を、今此時に臨んて、彼うしろ矢射て、遠く先祖の名を汚し、長く子孫に耻のこさん事、却て不孝にこそはあるべけれ、詮する所、信幸に於ては、關東の方人して、彼家と共に興亡を同う仕るべう候と申す、昌幸强て留むるに及ばず、父子兄弟、忽に引き別れ、信幸東へ參りければ、昌幸幸村、是より信濃へ引返して、西へこそ隨ひけれ、德川殿、此由を聞召し、御消息を給て、信幸が志を感し給ふこと斜ならず、中納言殿、山道より攻登らせ給ふ時、昌幸幸村、御勢を留め參らせんと計る、信幸先陣賜はりて、伊勢崎の要害、攻破て後、堅く先陣を辭し申ければ、御ゆるし蒙て、上田の城には向はず、關が原の合戰終て、天下悉く德川殿に歸し參らせ、伊豆守信幸、勳功の賞に申替へて昌幸幸村、死刑をば宥めらる、信幸大に悅て、此由を告しかば、父子上田の城を出て、高野山に遁れ、慶長十四年、安1房守昌幸入道、年六十五歲にて死しぬ、左衛門佐幸村は、大坂の軍起りし時、子息大助、引具して、城中に籠り、類ひなき振舞して、父子ともに打死す、父は四十六歲子は十六歲と云伊豆守信幸は、父と弟とが命、乞ひ受け申せしのみにあらず、上田の城に餘多の地加賜て、沼田の城をも合せ領す、沼田二万七千石、上田二万八千石、加增五万石、合て十一万五千石也大坂の軍起りしに、信幸父子、將軍家の先陣して、城を攻む、再び軍起りしに、子息兄弟、大御所の先陣して、天王寺に向つて合戰す、元和八年、信幸信濃國松城に移さる、十三万石沼田を領する事、元の如し、明曆二年十月晦日、信幸致仕す、嫡子河内守信吉早世し、二男内記信政に家を讓り、松城十万石嫡孫熊之助2に、沼田の城を分ち給ふ、三万石同四年七月十六日、入道して一當齋と號し、同年の十月十七日、九十三歲にて卒しけり、內記信政、信幸が二男なり、生年十九歲にて、大坂の軍に從ひ、兄信吉早く卒しければ、父が家讓られ、松城の城を領し、明曆四年二月五日、年六十二歲、父に先たちて卒す、其子伊豆守信房、父に繼き、寬文九年十二月廿五日に叙爵す、
- 慶長十四年、安 — 지면 그대로. 真田昌幸의 몰년은 통설 慶長16.6.4(1611). 향년 65세와도 慶長16이 맞음
- 嫡孫熊之助 — 지면 그대로. 明暦2年 沼田 3万石을 분지받은 信吉의 아들은 통설 信利(信直). 熊之助는 信吉의 장남으로 正保2(1645)에 이미 죽었다고 함. 미확인