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松倉

第十二下 · 단락 14 · 780526 68코마 R부터

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지명 6 5 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

豐後守藤原重政は彌七郞秀政が嫡子也、松倉が先祖は越中の國の住人にて、嘉吉年中大和國に來て、添上郡橋田といふ所にあり、其後筒井が家に仕ふ、順慶が時に當つて、秀政彼の家人の隨一にて武勇の名譽、當世に聞えてけり、仕丁記に見えし所なり秀政が弟權左衞門尉、右近入道西安齋等、幷に筒井宗徒の侍なり、其後筒井が家亡びてのち、德川殿に仕へて和州五條村二箕村を新城として一万石を領す、或說に重政の曾祖父式部廣次といふは、三千石計りの地を領したり、其子左馬助某其子右近大夫信重といふ、重政は信重が子なり、筒井順慶が世嗣伊賀守定次伊賀國に移されし時、右近大夫當國名張郡五千石の地を領しきといふ、此說心得られず、多門院日記に天正十一年十二月廿九日、筒井等の大名を召し定む凡十一人、其中松倉彌八郞同彌二郞等を載せて是則ち羽柴筑州の異見たり、各々大坂に越し禮を申す、松倉彌八郞は越智三千石を與ふと見えたり、右近大夫が事は見えず、又一說に重政初め吉野郡五條二箕の城に在りといふ、又一說に重政いまだ九一郞と申せしより、豐臣家に仕はれ初め二千石を賜ひ、其後三千石を加へられしといふ、其說各同じからず、されど多門院日記仕丁記等の如きは、當時其國の實記なり其餘の說の如き、註するに足るべからず
世に傳ふる所は大坂の軍起りし初、まづ軍勢を分ちて丹後の國に差向け、細川が城を攻めよとて七月廿日丹波但馬の人々、大坂を打立つ重政も寄手の中に駈り催されしが、此日亡父が忌日なればとて、僧たち家に招請し佛事作善し果て後、夜もすがら酒打のみ、醉臥して日一日を隔て、起き出てゝ後に大に驚く、石田治部少輔三成が家の老嶋左近は、父が古き傍輩なり、又妻の父なれば彼が許に行き向ひ、かくても猶丹後の國にや向ふ、又重て御下知を承て東國にや向ふべきと、三成が旨をぞ禀けたる、當時軍起りし初にて島も其事となく取紛れて、日數經る程に、重政大に怒て、さらば關東の味方にこそ參らめとて、郞等田中藤兵衞尉召具して、東國に馳せ下りしといふ、又一說には重政昔より井伊侍從の家人木股淸左衞門守吉と親かりしかば、守吉に就きて侍從を賴み、味方に參りし由を申せしともいふ、詳なる事は知らず、
九月十五日東西既に關が原にして矢合せんとす、重政郞等の田中一人具して、德川殿の御陣に參る、重政仰承りて大事の要害を守るといへども、彼處に在て今日の戰は如何にやあらんずらんと思ふが、餘りに心苦しう候ふ程に馳せ參て候ふ、あはれ御免を蒙て先陣の人々の軍するやうを、只一目見て罷り歸らばやと申す、德川殿いみじくも參りたる者かなと、仰せも果てぬに御前を立て、敵の中に馳せ向ひ、よき首一つ取て御前に參り、味方既に打勝ちぬと見て候、さらば御暇を給はるべう候と申て、おのが陣にぞ歸りける、
德川殿重政が振舞ひ大に御感あつて頓て其賞行はる、大和國宇智郡二見の地一万石大坂の軍起りしには、藤堂和泉守高虎に隨て城を攻め、再び軍起りし時は、水野日向守勝成が手に屬し、大和路の先陣して戰ひ、明れば五月七日の合戰に首五十三切て献る、軍終て後、堀丹後守直寄、重政と功を爭ひ兩御所の御裁斷を蒙て、重政が申す旨ことわりありければ、大御所の御感斜ならず、
是は去年十二月四日に越前加賀の勢、互に先を爭つて城に攻め近づく、藤堂和泉守が手に隨ひし大和勢、我れ劣らじと城を攻む兩御所の御下知をも承らずして軍勢を進めし事を、大に怒らせ給ひ、人々の手に御使を給て引返さる、藤堂下知して我手の人々引き返さんとす、重政其旨に從はず、初め城に向ひしには、先手の人々に拔かけし、今御使を承るこそ心得ね、旣に仰をも承らず進み攻めし上は、仰承つて引返さんとも覺えぬ者をとて、猶城をぞ攻めたりける、兩御所の御使を承て後、引て返る、又此年五月六日道明寺の合戰に、松倉が後陣に控へし勢亂れしに、松倉が勢の捨てたる旗を、堀丹後守拾ひ取て證とし、松倉既に迯け走るに及て、直寄が軍勢して助け候ひぬといふ、松倉陣して旣に戰を合せんとする時、旗は陣のをりへに立つること勿論なり、重政が後陣亂れたるに及て、捨てたる旗を拾ひし事、直寄既に重政に後れ來ること揭焉たり、且重政が勢逃くる敵を追ひ討つに及で、敵また弓手の山より横さまに馳せ下る程に、迯くる敵も又取て返し、味方さん〱に成て引返す、天野半之丞只一人蹈み留て戰ふ、重政これに力を得て味方を下知し、取て返し戰て勝つ事を得たり、かゝる所に丹後守直寄、銀の冑を着て糟毛の馬に鞭打て、おのが勢の眞先かけて、かたきのしりへに馳せ向ふを見て候ひき、されば重政いりで直寄が助を請ひ候ふべきと申ければ、大御所聞召され去年重政が高虎と相論に及びしも、其理なきにあらず、今又陳じ申す所、其證あるに似たり、返す〱も神妙の至り也と感じ仰せ下されしとなり、
四萬三千石を賜ふ、其後江戶馬塲先の御門石垣を築きし時、十萬石の役承るべきよし望みしかば、所領六萬石に成されて、十萬石の軍賦許されしとなり、
寛永の初、重政が家人の乘つたる船、風に流されて呂宋國につく、彼國の人我國の財を悅て、此後も年々に往來せよと約束す、重政この由を聞て然るべき古兵を、商人の樣になし立てゝ、彼が悅ふ物共を多く船に積ませ、初め渡りし者に案內させて彼國に渡す、彼國の人我國の財多く得て悅ぶ、此後は年毎に來らんに我らが船ばかりにては、寶の數も多からじ、多くの船をわたしなん、此印を立てたらん船をば、いくらも國に入れ給へとて、赤旗一流留め置て歸る、人の風俗國の要害を、能々見おほせてければ、重政關東に參り御許しを蒙て、彼國を打從へんと望む、頓て御許しを蒙り悅ぶこと限りなし、弓鐵砲三千つゝを拵へ、來年は押渡らんとせし時に忽ち煩ひ付きて死しければ此事止みぬと、重政に仕へし古兵の申せしを承りき、此時呂宋に使せしは吉岡九右衞門木村權之允と申す、木村は彼國に病死し吉岡は彼處に留ること五箇月にて歸りしに、重政は去年の冬死したれば其事空しくなりたり、吉岡等長崎を立ちしは寛永七年十一月十一日、歸りしは同き八年六月なり、
寛永七年十一月十六日重政卒して、其男長門守重治家を繼く、實は養子なり實父は知らず同き十四年の冬、重治が郡民等西洋耶蘇の法を守りて守護に叛き、高來の城を攻めんと原の城に立籠る、頓て追討の御使を下され、鎭西の大名の軍勢して攻めらる、折節重治關東に伺候せしが、夜を日に繼ぎて馳せ歸り、寄手の人々と同じく城を攻む、明る十五年二月廿八日城終に落ちて、男女合て三萬七千餘人が首を切る、同四月重治父子の罪を定められ、重治美作國に流されて森内記長繼に預けられ、息男右近大夫重利は生駒壹岐守高俊預人にて讃岐の國に流さる、同七月十九日重治が罪、これ輕かるべからずとて誅せられ、息男實は重治が舍弟なれば死刑をば宥められてけり、