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○石田が黨東照宮を謀り奉らんとせし事

卷之十一 第24話 · 段落 3 · NDL 1078984 200コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

慶長三年八月十八日太閤逝去。其比台德院殿伏見に御座しまして、太閤の病重かりしかば、關東に赴かせ給はん事延引なりしが、俄に十九日伏見を發して關東に歸らせ給ふ。是れ東照宮遠大の神慮なるべし。四老奉行內々相計り、德川殿伏見に有りて權威日々に增長すべし。秀賴公を早く大坂へ移し、諸方一同に參り集りて尊敬すべき事然るべし、と東照宮に强て申して、同四年正月十日大坂に移居あり。東照宮も送らせ給ひて、大坂へ御出あり。片桐東市正且元が宅に御止宿有りけるが、十二日の曙に俄に打立ち給ひて、淀川を御船にて上らせ給ふ處に、枚方近く川岸に人多く群りけり。若や謀り奉る叛反の輩に有るべきか、と驚く處に、井伊直政が足輕と見ゆる、と申す者あり。程無く御船近く成りければ、脇五右衞門などいへる物頭跪きて待ち奉りて、頓て伏見に入らせ給ひぬ。
又此時御乘物には村越與三右衞門を乘せさせ給ひ、東照宮には陪者の騎馬の中に御雜り有りたりとも言へり。又井伊直政は馬上にて御迎に出で、物具して其上に常の衣服著たり。直政が手の者皆下に具足を著、弓鐵炮の者彼是二千許にて參り、殊に御愛ありける彌八鹿毛を引き來りければ、其儘打乘らせ給ひて歸らせ給ふとも言へり。
此頃旣に世間さま〲に言振し、如何なる事か出來らん、と人々危みおもへり。東照宮も御屋敷に大竹にて菱垣を結はせられ、御門を押し開き、敵寄せ來らば堅固に防ぎ守らせ給ふべき設あり。御門を開く事然る可からず、と申す者有りければ、門を閉ぢて守らば敵に悔らるゝ1なり。只押晴れて軍の支度をせよ、と仰せ有りけるとぞ。京極高次參りて、大津の城へ引移らせられんや、と進め申されけるを聞召し、敵寄せば上の臺へ押し上げ、金札の宮の邊にて眞丸に成りて一合戰すべし。吾兵二千許や有らん。敵何萬もあれ打破る事難からず、と仰せられけり。正月十九日、安國寺瓊長老、生駒雅樂頭、中村式部少輔、堀尾帶刀四人四老五奉行の使として、東照宮に參りて、伊達政宗、福島正則、蜂須賀至鎭緣組の事によりて、德川家獨擅なる事共、豐臣家の爲然る可からざる由申す旨あり。依りて世の中愈樣々なる風說あり。其頃榊原式部大輔康政伏見に上るとて、二月二十五日尾州宮に著きけるが、伏見の騷がしき由を聞き、日夜道を急ぎて、道すがらにて聞けば、伏見にて、旣に東照宮の御館へ敵押し寄せたりなどと言ひ振らす。二十六日の晚膳所にて伏見よりの飛脚に行逢ひ、未だ弓箭は始まり申さぬ、と言ふを聞き、康政悅んで則ち膳所に陣し、秀賴の下知と稱し、伏見の騷に附き東海、東山兩道の人留すると振れさせ、勢田、矢橋を三日押留めたり。其比の騷しきに諸國より聞傳へ、京伏見に集る人殊の外多かりしに、押留められ、草津、野洲を始めとして、何萬といふ數計るべからず。扨康政三日の後未刻に、構へたる關所を開かせたれば、旅人一同に京伏見に入る。康政膳所を立ちて、七千許の人を率ゐて伏見へ入りければ、京にて關東より數萬の軍兵馳著きたり、とひ振らす。康政小具足著て鉢卷し、馬印押立てて參りければ、御前に召して御手づから御熨斗を下されけり。康政下知して、御藏より料足數千貫出させ、人々に分渡し、內府の軍兵六萬にて駈け著きたれば、館にて兵粮の用意俄に設け兼ねたり、と言はせて店屋物を買ひ來らしむ。數千人、京、伏見、淀に馳廻りて、赤飯菓子酒樣の物一つも殘らず買ひ來れば、關東より十萬の軍兵集りたり、と人々思はぬ者も無し。是に依りて石田が謀空しくなると言へり。東照宮、柳生又右衞門は、石田が士大將島左近と同國の好にて懇なりと聞召され、左近方へ行きて物語して、彼は如何にか言ふらん。聞きて來れ、と仰有りしかば、柳生左近に逢ひて世間の物語し、如何に成るべき事ならん、と言ひければ、左近聞きて、今松永、明智二人の智謀決斷有る人無ければ何事か有るべき、と打笑ひけり。此子細は、或時石田密謀に及びけるに、左近、豐臣家の爲を存ぜんに斯くあらで止むべきや。然れども爰に存ずる旨あり。大事を企つるには、我志す處を無二無三に決斷して、少しも猶豫有るべからず。然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。旣に時を失ひぬ。能々世の有樣を見るに、石田の家を惡む人々、大かた德川殿に心を寄せたり。當家の存亡計るべからず。一日の過ぐるも殘り多し。只理を非に曲げて、唯今まで疎遠の諸大將達へも遜りて、遺恨無く計ひて交り親しみ、暫く時を待つべきも一つの計策にてこそ、と言ひければ、三成、されば縱令一時に能く志を遂ぐるとも、後の安かるべき樣を計るなり、と言ひけるに、左近、否々事能く一時に勝を得るならば、後に何の危き事か候べき。內府に親しき人々を積るに、其兵二萬に過ぐべからず。味方素より心を合する大國の人々、又近國の兵を集むるとも、忽馳寄つて五六萬には及ぶべし。景勝卿采配を取つて下知し、關東を攻破らんに何程の事か候可き、とて又存ずる旨を言ひ出しけるに、客の來て三成坐を立ちければ、樫原彥右衞門居殘りて左近に向ひ、如何にも仰せ然る事なり。松永彈正、明智光秀は無雙の惡逆の者なれど、事を決斷するに誰か相並ぶべき。此詮議の破り相手に賴む可きものを、と言ひけるとかや。其に依りて斯く柳生には答へけるとなり。
  1. 誤植 — 底本「悔」。振り仮名「あなど」から「侮」の誤植か。