慶長六年四月、伊達政宗奧州景勝の地を斬取らんと、百姓を間者にして怠を伺はれたり。松川は阿武隈川の枝川にて、伊達領の境なれば、本條出羽守、甘粕備後、岩井備中、杉原常陸、栗生美濃、岡野左內、五千許にて守りけり。政宗は國見峠を踰え、信夫郡より瀨の上の川を涉り、五千の兵にて梁川の城を押へ、松川を指して押寄する。物聞共斯くと告ぐれば、本條出羽、城を出で、川を渡してや戰ふ、川を前にして半途をや打たん、といふ處に、松木內匠、敵不意の利を謀りて押寄せ候に、味方川を渡りて待ちかけなば、政宗思ひしに違ひて必ず引退くべきなり。川を涉らんこそ能かりなめ、といふに、栗生同心せず。此川中窪にて極めて渡す事容易からず。政宗涉らん處を半途を打つに利有らん。岡野、否々敵大軍なり。爰に待たんは敵を恐るゝに似たり。勇士の志に非ず。疾く川を渡して待設せん、と云ふ。栗生、孫子に、以て㆑少を合ふ㆑衆に是を曰ふ㆑北といふこと有り。小勢にて無謀の軍せんは、大敵の擒とならんは必定なり、といふ處に、甘粕備後、杉原常陸も馳來り、先物見を出せ、とて、猪俣主膳、本庄段右衞門、井筒小隼人、乘り行きて馳歸る。猪俣は、政宗川を涉らじ、といふ。二人は、政宗川を渡さん事半時許もや有らん、といふ。子細を問ふに、猪俣、敵馬の沓を取らず障泥を外さず。羽壺を常の如く附けたり、といふ。井筒、本庄が曰く、我等見し所も同じく候。されども政宗未だ來らず。其間五六町許もや候らん。政宗川際に押寄せて其支度せんに、何の時刻を移すべき。且小荷駄を遠く引退けたれば、戰ひを持ちたる敵なり。政宗二萬の軍兵を帥ゐて寄來り、空しく引返すやうや候、といふ。さらば川端二町許置いて陣を整へて敵を待たん、といふ所に、岡野は切支丹を信ずる人なるが、南蠻人の贈りける角榮螺といふ冑を著、眞先駈けて川を打涉す。栗生、甘粕、川を渡るべからず、と下知すれども、布施次郞左衞門、北川圖書、小田切所左衞門等二十騎許、眞驀に川に乘入り打渡す。宇佐美民部鎗を橫たへ、殘る兵をば押止めてけり。斯れば政宗押來り、先陣片倉小十郞透間も無く切つて懸る。岡野四百許眞丸になりて鎗を打入れ、面も振らず喚き叫んで戰ひけれども、大軍に取圍まれ、左內僅に打ちなされ、切りぬけて引退く。北川馬の首を立直し小田切に向ひて、唯今討死せん。會津に殘し候十四歲なる吾子を囑申すよ。是を形見に送りて賜はり候へ、とて猩々緋の羽織を脫いで小田切に渡しければ、小田切、若萬死に一生を得候ならば慥に送り候べし、とて羽織を腰に挾みけり。北川、今は思ひ置く事無し、とて追ひ來る敵の中に駈入りて切死にしたりけり。是を始として歸し合せ、火を散して戰ひけるが、討るゝ者多し。政宗勇み進んで追駈けられしに、岡野猩々緋の羽織著て鹿毛なる馬に乘り、支へ戰ひけるを、政宗、馬を駈寄せ二刀切る。岡野振顧りて、政宗の冑の眞向より鞍の前輪をかけて切附け、反す太刀に冑の錣を半かけて斫り拂ふ。政宗刀を打折りてければ、岡野すかさず右の膝口に切附けたり。政宗の馬飛退きてければ、岡野、政宗の物具以の外見苦しかりし故、大將とは思ひも寄らず。續いて追詰めざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討取るべきに、とて大に悔みけるとなり。岡野は川へ乘入れたるに、政宗、又十騎許にて追駈け來り、穢し返せ、と呼はりければ、岡野振顧りて、眼の明きたる剛の者は多勢の中へ返さぬ者ぞ、といひて岸に馬を乘上げたり。宇佐美兵左衞門十六歲、松川の向ひの岸にて危く見えしかば、父の民部馬を川に打入れたり。栗生、如何に先には川を涉る者を止められしが、何事に渡され候や。名將の宇佐美駿河守の子息には如何に、と問ふ。民部、謀も心より出候。あれ見られよ。一子の兵左衞門向の岸にて早討たれぬべく見ゆれば、心の亂れたるぞや、と言ひも終らず川を涉り、打連れて引返す。栗生は陣を整へて待ちかけたれば、片倉が軍兵を追崩し川に追ひたす。されども大軍見る內に重り攻寄せしかば、上杉勢は福島を指して引退く。福島に至て行程ゐなか道十八里なりといへり政宗、何處までも剩すな、と馬煙を立てて追ひかけしかば、物具を道に捨つる事數を知らず。息切れて行倒れたる者も有り。持鎗の長き柄は持堪へ難くて、多くは捨てけるとぞ。靑木新兵衞、永井善左衞門を
○伊達上杉陸奧國松川合戰の事附永井善左衞門岡野左內が事
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永井善左衞門は世々德川家に仕へけり。小田原の城を圍まれし後、如何なる故にか有りけん、蒲生氏鄕に仕へ、其後上杉家に奉公しけり。優れたる剛の者にて、奧州福島口にても物見に只一騎出でたりしに、伊達政宗の伏兵六人起りて取包みしを、四人討取つたり。長篠にても太刀打して首を取りたるが、右の指に手負ひ刀を取落せしを、取りたる敵を追詰めて、又討取りたる程の物師なり。其後其疵を問へば、馬に喰れたり、と答へしとぞ。斯の如く功に誇らぬ人なり。後御旗本に歸り仕へて御旗を司りき。善左衞門浪人にて上州深谷に閑居して有りける時、人の與へし瀨戶の茶入を祕藏せしに、下女取落して打破りぬ。下女驚きて、我鏡臺より五倍子を入れたる壺を取出し、是にても代に奉らん、といふ。用にも立たぬ物なれども、是を請取り置きぬ。後に小堀遠江守見て手を打ちて、是は唐物の肩衝なり、と稱美し、後に公に奉りしとなん。板倉勝重懇なりしかば、將軍家に御斷を申さん。御上京の折京へ來られよ、といひ越されしかば、深谷を出でて平安に赴く時、浪人を伴ひけり。名護屋に親族有りて立寄りける隙に、倶ひける浪人、己が刀を永井が指替の刀に取替へ駈落しぬ。永井詮方なく京に著きて後、死罪の者有りけるに試みんとて刃を附けさするに、錆びて金色も見えわかず。研師刃を附けて、此刀の如き刀の刃曾て心に覺えず、といふ。斬罪の場にてふじ身の者有りて切れざりしに、かの永井が錆刀にて切りたりしに、物に障る事なきに似たり。能研ぎて見れば優れたる物にて、銘は正宗と切りたり。本阿彌に見すれば、正宗の中にも殊に最上の物なり、といへり。是も將軍家に奉りて、永井正宗と號せられしとなり。
始として、大剛の者共馬を返しては追散し、取つて返しては突拂ひ後殿しけり。靑木は小丈なる馬に乘り、柄の短き鎗なりし故、殊に乘り退り幾度となく支へ戰ひけり。甘粕備後は上杉家にて勝れし勇將なるが、白石の城を守りしに、會津に行きたりし跡にて、登坂逆心して白石を敵に取られし事を口惜く思ひしかば、今日取分きて引退り、取つて返して追退け、勇氣を顯しけり。福島の城下の川を渡る時、政宗の兵彌追詰めて、我先にと川に打入れたるが、永井を後より三刀切る。永井度々の軍に戰ひ疲れ、大軍打渡す川音に紛れ此を知らず。靑木は鳥毛の棒の出しにて黑き母衣懸けたるが、乘寄せて敵を追拂ひ、川岸に打上りて永井に斯くといへば、驚きて從者に見すれば、母衣に三刀、鞍にも刀の痕あり。永井、今日は助けられし、とて一禮をぞ述べたりける。小田切も敵に取圍れ、あはや討たれぬと見えしを、靑木又駈寄せて敵を追拂ふ。岡野は旗押立て靜に福島の城に入り、甘粕、栗生も引入りければ、政宗軈押寄せたるに、殿の兵共柵を踰えて城に入りたりしに、靑木は柵を越え兼ねて只一騎控へ居たる所に、政宗馬を駈寄せたり。靑木十文字の鎗にて政宗の冑の立物三日月を突折りしかば、政宗馬に諸鐙を合せて駈通られぬ。靑木後に政宗と聞きて、今一鎗にて突殺すべきに、口惜き事よ、とぞ言ひける。斯る處に簗川の城より須田大炊助長義討て出で、政宗の兵阿武隈川を前に陣しけるが、此川奧州第一の大河なれども、須田は能く地の利を知り、兵を二陣に分ち、須田は川上に打上りけるを見て、政宗の兵二つに分れて防がんと色めく所を、一文字に渡して斬り懸る。敵敗北しければ物具を始め多く分捕にせし中にも、伊達家に傳へし幕を、須田宇平次、中村仙右衞門奪取りてけり。須田今年二十三、之より武名殊に世に高く聞えけり。政宗は松川にて、後に敵出でたりと聞き引退く處を、本庄越前又駈出でて川を渡し追駈けければ、政宗敗北し、信夫山に掛りて引退く時、景勝後卷に打出でて紺地に日の丸の旗山の上に見えしかば、政宗取る物も取敢ず仙臺に引返されけり。後に政宗使を以て、攻取りたる白石の城と幕と取換へん、と云ひ送られしかば、景勝聞きて、白石の城は鋒にて攻取られ候。幕も亦吾士卒の骨折りて取り得候へば、重て幕をも鋒にて取返されよ、と答へられし後、小城一つ攻落されしは恥に非ず。昔より名將も城を敵に攻落されし事無きに非ず。武具を取られし事は弓箭取る身の大なる恥なれば、政宗我を謀りて斯く云ひしなり、と笑はれけり。台德院殿上杉の館に御出有りし時、彼の九曜の幕法華經の幕を厩に打たれしとぞ。其後政宗、岡野に逢ひたりし時、松川の軍の有樣語り出して、汝を斬りつるは忘れじ物を、といはれしかば、岡野、大將の刀の跡と存候て、金糸にて縫合せ、家の寶とせんと存ずる由言ひて、羽織を政宗に見せければ、政宗悅ばる。其時岡野、冑の錣を吹返しかけてなぐり切にしたりき、と申しければ、政宗色を變じ、物語を止められしとかや。
岡野は元蒲生家の士なりしが、上杉家に仕へけり。富有なる人にて、儉を好み奢を憎む。一月の間二三度も金銀を山の如く積みて、其中に臥して慰としけるを、聞く人誹合へり。或時岡野例の如く金銀を竝べて見居たりしに、近きあたりの士爭をし出し、方人の者共數多駈寄りて騷ぎしに、岡野聞くと否や正宗の刀を提げて走り行き、一日一夜其家に有りて、事能取扱ひて歸りけり。岡野が馬取の下部、大板金一枚持ちたりと聞き及び呼出して、汝が志こそ由々しけれ。人は貴賤に依らず、貧くしては義理の爲すべき事も心許にて叶ひ難し。能く心掛たり、と云ひて黃金百兩與へけり。景勝會津に兵を起す時、永樂錢一萬貫文を獻じ、朋輩の親しみ深き人々には數多黃金を分ち送りけり。軍の仕度に人々は犇めきけれ共、岡野は、猿樂に舞踏れ、とて騷がず。人に語りて、日比は武備に怠らず。猿樂ども世の豐なる時は諸方に招かれて暇なし。今人々あわて騷いで、彼者共暇あれば玩に招きたるよ。軍に臨む者生きて歸らんと思はず。されば今生の樂と思ひて慰み候、とぞ云ひける。又政宗福島の城を攻め取らんとて、木幡四郞左衞門、百騎許にて城近く働きけり。岡野井樓より見、大物見なれ共、三陣に分りたるは軍を心懸けたり。兵を出すべからず、と言ひけるに、鈴木彥九郞、寄せ來りし中に政宗有るべし。喰止めて討取らん、といへば、尤なりとて兵を出し、先陣二十騎許次の陣に一にならんと色めく所を、鐵炮を打かけ、煙の下より左內一文字に切つて掛り、遂に木幡を討取りければ、景勝度々の功を賞し、謙信武功の輩に姓名を與へられし例により、左內を越後と更められけり。政宗三萬石にて招かれしか共、舊主の好忘れ難しとて、蒲生秀行に仕へ猪苗代の城に有り。下野守忠鄕の時死しけるが、金子三千兩正宗の刀を遺物に獻じ、忠鄕の弟中務にも金子三千兩、景光の刀貞宗の小脇指を形見に進らせけり。年頃人に貸しける金銀の手形證書の大なる箱に有りしを、皆焚捨てたりしとぞ。