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關

第十二下 · 段落 4 · 780526 64コマ Rから

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長門守平一政は太政入道淸盛が嫡男、小松內府重盛の二男、新三位中將資盛の末葉なり、初め資盛十三歲にして殿下乘合の事に依て、父の不興を蒙り、伊勢國鈴鹿郡久我といふ所に追下され、十八歲の頃までおはせしが、此所にて一人の男子を設けられ、盛國とぞ申ける、其後源氏の世となりても盛國いまだ幼なければ北條時政にぞ預けらる、盛國成人の後二人の男あり、兄は關左近大夫將監實忠、伊勢の國鈴鹿郡關谷の地頭職を賜り、鎌倉に住して北條家に屬す、弟は長崎三郞左衞門尉盛綱、北條が家の執事として、それが子孫世々關東に勢ありしかば、關が子孫も關東に伺公す、元弘の頃相摸入道高時が一族亡びし時、實忠が六代の孫關四郞、伊勢の國に歸りて關谷に忍び住む、此所の地下人等、昔の好み忘れかねて、主君とぞ仰きける、其後足利殿の御家人に召さる、四郞數多の男子あり、嫡子は當國神戶に住し二男は國府にあり、其餘龜山鹿伏兎嶺等に住す、仁木義長謀反の時、關が兄弟將軍家の御方たるに依て、鈴鹿河曲等の郡にして、各勳功の賞賜る是等が子孫當國に繁昌す、中にも北方三人と聞えし關は當流の嫡家として鈴鹿郡龜山に住し、神戶は河曲郡にあり嶺また鈴鹿郡に在り、皆足利殿の御家人たり、關下總守が男安藝守盛信が時に至て、一族神戶藏人大夫世嗣なく、盛信が二男養て家繼かせんと約束す、かゝる所に織田殿、三男三七信孝して神戶が家つがせ、神戶夫婦を召捕て、近江國の住人蒲生左兵衞大夫賢秀に預けらる、幾程なくて關も信孝に無禮あらはすのみならず、昔佐々木の六角と心を合せ、信長に背きし事ありとて、是も蒲生に預けらる、盛信頓て入道して萬鐵齋と號す、天正十年の春信長、三七信孝を大將軍として、四國の地に差向けらる、此時に至て安藝入道は、さる古兵なればとて召出され、三七殿に附けられて、本領龜山の城を賜りたり、入道二人の男子あり、嫡子は癈人なれば法師にせんとて、幼より比叡山に登す、二男は勝藏と名のつて、此程は柴田勝家を賴んて越前の國に在り、入道本領に歸りしのち、年頃の家子郞從召集めて、二人の子いづれをか世嗣にせんと問ふ、多くは嫡子旣に御出家あれば、二男勝藏殿御世嗣に立られんこと勿論に候といふ、羽赤藤左衞門尉ばかりぞ比叡山に渡り給ふ御事は、御嫡子にてまします、還俗なさせ參らせて、家督にせさせ給はんに、何條の事か有るべきと申しける、入道この議に同じて頓て山より呼下し、男になし右兵衞佐一政と名のらせて、蒲生左兵衞大夫賢秀が婿にこそなしてけれ、三七殿失せ給ひしのち、右兵衞佐北畠殿に組みしければ、秀吉にも見參あるべしとて都に登る、かゝる所に初め二男に家繼がせんと詮議せし關が郞等四十三人、心を合せ瀧川左近將監一益を賴て、二男を主になし立てんと、一益を呼び迎て龜山の城に立籠る、万銕齋入道父子都に上るに及ばず、路次より近江の國に趣き蒲生を賴み秀吉の加勢乞て、龜山の城を攻め落す、秀吉城をば賢秀が男忠三郞氏鄕に賜ふ、氏鄕畏て累代傳領の地失はしむる事不便なり、哀れ右兵衞佐に返し給はらばやと望みしかば、さらば汝の望に任せよとて、關にぞ下し給ひける、此年氏鄕叙爵して飛驒守になる、明れば天正十二年秀吉氏鄕に伊勢松が島の地を賜ひ、關右兵衛佐田丸中務少輔は蒲生が所緣の者なりとて、其手にぞ屬せらる、同き十八年氏鄕奧州の守護になされ、會津の地に移る、關田丸同じく移り右兵衞佐一政白川の城を領し、四万八千石從五位下長門守になさる、文祿四年の春氏鄕卒し、慶長三年の春氏鄕の男藤三郞秀行、下野國宇都宮の城に移さる、關田丸は太閤家に召し歸され、二人同じく信濃國にして所領賜る關は飯山の城田丸は川中島の城を給ひしなり當國は寒氣殊に甚しとて二人共に嫌ひ申ければ太閤薨し給ひしのち、同き四年の春德川殿の御計らひとして、二人又同じく美濃國にして所領賜ひ、關は當國土岐の地を領してけり、
明れば五年の秋東西一時に軍起る、關は東國に心を通しけれども、いまだ籠るべき城をも搆へず、勢の程は無勢なり、力なく大坂の催促に隨ひ、當國の人々と尾張犬山の城に籠り、大久保相摸守忠隣本多中務少輔忠勝が許に使立てゝ、御勢攻め上らんを待て、御方に馳せ加るべきの由を東國に申す、德川殿向はせ給ひし時、急ぎ御陣に馳せ参り關が原に戰ふ、其賞行はれて累代の本領龜山の城をぞ賜りける、三万石田丸は西に組みしければ家亡びぬ、同き十五年七月十九日一政恩加へられて、伯耆の國黑坂の城賜ひて移る、五万石大坂前後の戰に隨ひ首三十を切て献る、程なく一政卒し世嗣なく、關が嫡流絕えてけり、卒せし年月いまだ聞かず元和三年の頃にや