高麗都南大門合戰、大明李如松三十萬騎にて來る。小早川隆景一組二萬との合戰なり。初め李如松は、吳惟忠、張世爵等十萬餘り、山海關を出で、鴨綠江を渡り朝鮮に入り、小西攝津守行長大將にて、大村新八、松浦刑部卿、法印宗對島守等二萬八千にて楯籠る。平壤城を攻破り、小西を追うて朝鮮の都指して推來り、朝鮮の人馳加りて三十萬騎なり。大友義統も峒山城に在りしが聞逃して落る。小早川隆景は開城府に在り。都より五里を阻てその間に大河あり。其時黑田長政、久留米秀包も白川と襄陽に在り。小西、大友も此城に止まる。隆景は開城府に蹈止り、大明勢三十萬を引受け、一戰して相果つべく蹈止り給ひけるを、惣大將備前中納言秀家卿、石田治部少輔三成、增田右衞門尉長盛、大谷刑部少輔吉隆より飛脚を以て、早々都へ引取らるべく候。大河間に阻たり難義仕ること候間、此表へ一所につぼみ、然るべく、と申越され候へども、隆景は、我日本より渡海の初より、再び日本歸朝の心なし。本朝大半納り國家無事なれば、疊の上にて病死せんか、と是のみ心に懸りしに、幸に此陣出來、何より以て滿足なり。隆景年五十八、死しても惜からず、大明の三十萬に懸合ひ、切先より火花を散して合戰し、討死を遂げんこと老後の思出これに過ぎず。我假令討たれたりとも、日本の御弱にも成るべからず、大明三十萬を此所にて待受くべし、とて、少も動じ給はざりければ、大谷刑部少輔只一騎開城府へ來り、隆景に對面し、貴殿の御心底、古の名將勇士も此上過ぐべからず。但し貴殿二萬ばかりにて、三十萬の圍を受けて、徒に討死せられんこと本意なきなり。速に王城にかへり、惣軍を立備へ、御身惣軍の先手にて快く合戰し、死を善道に守り給はば、迚も死せん命忠義共に全からん。早く都へ引入り給はるべき旨諫めけるに、隆景心服し、左候はば、何時にても、先手は隆景一組申請け候間、他の望許容有るべからず、と刑部被㆓請合㆒候はば、王城へ引取り申べく候。大谷、其段は我ら請人に立ち候由申され候に附、白川に有りし黑田長政へ此旨申遣し、早々開城府へ引入れ申すべし、と告遣しければ、長政も久留米秀包も小西行長、大友義統同道にて、文祿二年正月十五日に、開城府迄引取り申され候に附、隆景、大谷、黑田、久留米、小西、大友同道にて川を渡りて王城へ引入候。隆景は右の所存故都へ入らず、南大門の外碧蹄舘に陣取り居られ候。同月二十六日、大明二十萬騎夜の內に河を渡り、都表へ推詰め候。其夜の廻番は隆景、相備立花左近宗茂なり。家老十𣆅傳右衞門五百餘にて曉打廻口に出づるに、大明李如松が大軍と闇紛にはたと行會ひ、立花が勢駈散らして引取り候を、大明勢追駈けしかば、十衞傳右衞1門返し合せ、五百餘散々に相鬪ひ殘らず打死する。雜兵四五人走返りて、此旨告ぐる。立花左近宗茂、則隆景竝に毛利七郞兵衞元康、久留米秀包、高橋筑紫へ告知す。隆景則ち王城へ注進、備前中納言秀家卿三奉行、何れも追々に南大門口へ馳來る。夜はや明けるに、遙に見わたる大明李如松が爰去ること一里ばかり、備を段々に立てて、只今掛らん氣色なり。その勢淵江の潮の漲來るが如し。先手二里餘に廣がり、勢子並を立跡も先も皆旗にて、夥しき事中々なり。秀家卿三奉行に、大敵と野合の合戰如何なれば、都へ引籠り防ぎ然るべし、とありしを、立花左近眼をいからし、太刀に手を掛け大音上げ、斯樣の大軍に籠城して叶ふべからず。兎も角もあれ野合戰に極め然るべし、と申されける。依㆑之合戰に極まり候。諸大將先陣を望まるゝに、隆景眼に角を立て、我先陣たること最前よりの約束なり。他の望有るべからず、とて隆景備を配られける。先陣粟屋四郞兵衞大將にて、村上彈正、野島掃部等三千なり。二の先は井上五郞兵衞大將にて、佐世石見守、吉見大藏大輔等三千なり。三番は隆景旗本一萬にて備へ、立花左近、久留米秀包、毛利元康六千は奇兵として、隆景の右の方三町ばかりに引退きて備へたり。其日の合戰火花を散し、粟屋、井上押立てられ候を、立花左近橫鎗を入れ、大將李如松が旗本を突崩せしかば、隆景も正面より切懸けられ候に附、大明二十萬惣敗軍になり、首數三萬八千餘、隆景一組へ討取り候。隆景、立花手柄と申すも中々疎なり。此時立花左近は、甲附の首二つ直取の高名にて、鞍の鹽手に附け太刀鐔本五六寸のつて鞘へ不㆑入を帶び、己も馬も朱になりて、先手より靜々と參られけるに、粟屋四郞兵衞備の前を打過ぐとて、其備の組頭村上彈正、野島掃部を呼かけ、立花申けるは、今日は、立てられまじき所を推立られ候、とありけるを、大將粟屋四郞兵衞聞も敢ず、立てらるる事も立てられ返す事も返したり。我備は今日の合戰の花になりたる、と返答する。聞く者粟屋を譽めざるはなし。扨立花左近は、隆景の旗本へ參られけるに、立花自身の高名二つまで、鞍に附けられたるを見て、隆景取敢ず、立花見ごと候、と譽られ候へば、左近聞給ひ、每事仕つる、との返答なり。よき自讚の言なり、と其場にて聞く人語られける。此時合戰未始らざる時分、黑田長政只一騎步侍七八人にて、隆景旗本へ見廻られ候。隆景見て、長政は幸の所へ御越候。粟屋四郞兵衞、井上五郞兵衞を先手に申附候。物馴れぬ者共にて心元なく候。貴殿先手へ越され、每事御指圖下され候へ、と申され候。長政喜悅の色見え、畏り候、とて先手へ越さる。頃は正月二十六日辰剋なり。朝鮮は寒國にて寒事不㆑斜。長政は大綿帽子を著し、甲は郞等に持たせられしが、隆景の先手へ出づるとて、綿帽子を脫ぎ甲を取て著られしに、隱なき例の水牛の甲なり。水牛の角本を薰皮にて結び附けられたり。扨甲の緒をしめ先手へ出でられ候へば、隆景旗本數千の士卒共、長政先手へ御越候上は、今日の軍に勝ちたり、と總軍勢勇みたるとなり。長政の年を問へば、其時二十五歲なり。その齡にて如㆑此。人に慥に思れ候は、中々凡人にては有るまじきなり。長政常に宣ひしは、立物指物は、海老は子にして差したる許にては、働𣆅か馬に乘り立行く時に、脫けて落つるものなり。立物に穴をあけ受子にも穴をあけ、革にて結附くべし、となり。自分大水牛の立物も、ふすべ革にて結ひ附けられたるを、其時見たる人語りき。
- 誤植十衞傳右衞門 — 底本「十衞」。同じ人物は2列目で「十時」と記される。「十時」の誤植か。