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有馬

第九下 · 단락 16 · 780524 77코마 L부터

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系圖を見るに、純友が子從五位下遠江權守直澄より、廿代にして、晴信に至ると云ふなり、按ずるに、朱雀院御宇、天慶四年、純友、橘遠保が爲に誅せられ、其子重太丸、父と共に誅せられ訖んぬ、新編纂圖を按するに、純友が男に、有信紀年伊王丸の三人を載す、伊王丸元服の後、良純と名乘る、有信と紀年とが子孫は見えず、良純四代の孫、武者所賴房は、門脇平中納言敎盛の家人、木曾義仲が爲に討れぬ、賴房が曾孫康方、男子二人あり賴道朝國と云ふ由、純友より後、九代の事を載せたれども、直澄が事は見えず、直澄父が誅せられし時、猶幼くして、朝家に名をも記されず、世の人も知らず、傳へざりしにや、又天慶の頃より、晴信が頃に至りて、六百餘年に及べり、其間廿代と云ふ、不審、若し純友と、直澄との間に、世次を洩したるにあらずや、或說に、藤原純友が養子は、平將門が末子なり、將門純友が朝家に二心あるを悟て世を遁れて、僧となる、其子常陸國志太郡に在て、志太小太郞と云ふ、小太郞が六代の孫遠江權守經純が代に、肥前國高來郡有馬の庄の地頭職に補せらる、是れ有馬と名乘るの初なり、經純が子有馬左衞門尉朝澄と云ふは、東鑑第三十七卷に見えたり、鎌倉殿の名の字賜て、朝澄と申す、先祖なれども、朝敵の名を避て、純の字は用ゐずして、澄と云ふ字に改めたり、修理大夫實純が代より、また純と云ふ字をば、用ゐしと云ふなり、
晴信が五代の祖肥前守貴純、累代弓矢の家を繼ぐ、肥前國高來郡を領し、有馬の城に住す、是を日野江の城と云ふ大内義隆朝臣に屬し、隣境を討ち隨へ、藤津彼杵を取て三郡を倂領す、島津家譜を按ずるに、中頃屋形號を許されて、九州の高家也と云々其子左衞門尉尙鑒、其子修理大夫晴純、公方萬松院殿の御諱字、賜りしとぞ聞へし、此時又杵嶋の郡を并せ領す、三十一万石計を領す仙岩入道と聞えしは、此晴純が事なりけり、其子修理大夫義直、其子太郞義純、二代共に公方の御諱字賜りし由、系圖に見天正の初、有馬、豐後の大友に志を通し、義鎭が時同國千葉胤連を討て、小城の郡を并せんとす、佐嘉郡の住人龍造寺山城守隆信、千葉を助く、有馬一戰に利を失ひ、其後隆信が武威、隣國に震ふに及て、有馬が勢日々に衰へ、本領高來一郡に成てけり、義直終に隆信と、中直りして、嫡子義純が娘を以て、龍造寺が男民部大輔鎭賢後に政家が妻とぞなしにける、
是れ龍造寺記の說に依る所なり、但し龍造寺記には、有馬義純、大友に隨ひ、義鎭が諱を受けて、鎭純と改め名のり、龍造寺と戰ひ、後に隆信に中直りし、嫡子修理大夫義直が娘を以て、隆信が男の妻とすと云々、有馬の系圖を見るに、義純と云ふは、義直が子にて、父にはあらず、龍造寺記の誤り記せしにや、暫く系圖の次第に依て、名の字を改め記す、
同き九年、有馬又隆信に叛き、密に薩摩の島津と、志を通ず、隆信安からぬ事に思ひて、二男江上又四郞家種を大將として、餘多の軍勢を差向けて、戰ふこと止む時なし、同き十一年、義純終に島津に隨ひ、其加勢乞うて戰ふ、隆信が勢、利なくして引返す、嶋津が大將新納刑部大輔、川上左京亮、有馬の城に止て守る、明れば十二年の春、隆信軍勢を分ち、嫡子政家、有馬の城に向ひ、江上家種、高來に向ふ、嶋津中務大輔家久、三千餘騎引率して、義純が後卷す、政家速に有馬の城を攻め破らざるを怒て、隆信自ら五萬餘騎を引率して、有馬の城に向ふ、義純森岳に立籠て、要害二三箇所搆て敵を待つ、同き三月廿四日、隆信家久が陣取りし嶋原の要害に向て、攻め戰ひ、龍造寺が多勢、家久がために破られて隆信忽に討れしかば、義純稀有にして、運をぞ開きける、隆信死せし時、五十六歲十五年の夏、關白島津を討んが爲、筑紫の地に押渡り給ふ程に、九國二島の大名等、日々に降人に成つて參る、有馬も共に、筑後國高良山の御陣に馳せ參て、頓て本領安堵す、修理大夫晴信、父祖の家繼て、高來の郡を賜て、有馬の城に住し、朝鮮の軍に隨ふこと凡七年、慶長五年、大坂の軍起りし時、小西攝津守が牒狀に隨て、鎭西の大名等、兵船に取乘て、長門國下關に至る大村新八郞喜前が謀に隨ひ、鎭西の人々、又是より皆本國に押戾す、晴信我身は本國に止りて、子息直純に、二千餘人附て、小西が水俣の城を攻む、關が原の軍終て後城の大將、腹切て士卒の命を乞ひしかば、晴信其城をば取てけり、直純を關東に參らせて、其由を申ければ、晴信が振舞神妙なりとて、本領を安堵す、慶長十四年十一月九日、晴信大御所の仰を蒙りて、阿媽港の蕃船を、肥前の沖にて燒き沈めぬ、
去年、本朝の商人、阿媽港の地に渡りしを、彼地のしんによろ商人の司なりかびたん船頭の事など云ふもの、本朝の人三百餘人を殺して、貨を奪ふ、此事共知れじとや、思ひけん、今年其しんによろかびたん等、長崎に來りしかば、晴信仰を承て、悉く討たんとす、色々に拵へけれども、彼等船に在て、陸に上らず、晴信兵船を揃て、其船を攻めんとせしを、早く悟りて、十二三里が程、迯け延びしに、海上忽ち風起りて、吹戾され、硫黃が島と云ふ所に、漂ひ着きしを、追ひ詰め散々に火箭を放つ、其火彼船に在りし火藥に附きて、燒上り、船摧けしかば、一人も殘らず、底の藻屑と成てけり、晴信御感に預かりぬ、
初め本多上野介正純が手に屬せし御家人岡本大八と云ひし者、晴信に年頃相語ふ、或時密に修理大夫に向て、去りし年、和殿が阿瑪港の船、沈め給ひし事、大御所の御感淺からずして、其賞行はるべしと、本多上野介に內々仰ありと傳へ承る、所領の地など望み給ふ所は無きやと云ふ、晴信大に悅ひ、只今鍋島が領する所、藤津彼杵杵嶋の三郡は、有馬累代傳領の地なり、然るを鍋島が故主龍造寺が爲に奪はれたり、和殿の計ひにて、上野介殿に申て、此由執し給りて、彼三郡を返し賜ひ候はゞやとぞ望みける、程經て後、大八一通の文書を、晴信に見せ、これ彼の三郡を充行はるゝ御敎書の草案なり、大八密に寫し取りぬ、あなかしこ、人に語り給ふなと云ひしかば、晴信悅ふこと大方ならず、凡此程大八に贈りし黃金白銀綾羅綿繡の類、いくらと云ふ數を知らず、大八又晴信に向て、かの恩賞の事將軍家より仰せ下さるべき由、關東に仰せ遣はされし所なり、急き數の貨を、關東の奉行頭人に賄て、事の妨なからん樣に、計り參らすべしとて、白銀六千兩を乞ひ取りぬ、斯て一歲餘りを過きぬれども、何の仰せ下さるゝ旨もなし、晴信大に怪み思ひて、日頃かの大八より、承りし某が勸賞の事、速に御裁許あらん樣を賴み參らする由の書かきて、上野介が許に送る、正純更に心得ぬ事かなとて、大八を召て尋ね問ふに、曾て存知仕らざる由を、陳じければ、正純此由を大御所の御聽に達す、頓て有馬が父子、召上せられ、大八と對决に及びしに、晴信大八が數通の書を、參らせし上は、大八陳ずるに言葉なし、先づ大八をば禁獄せらる、晴信が愚かに貪りて、彼が爲たばかられしこそ淺ましけれとて、御憎みを蒙る、大八獄中より、晴信日頃は長崎奉行職長谷川左兵衞尉を、闇討にすべきよし、結搆仕る由を告けしかば、重て兩人を召决せらるゝに、此度は晴信又陳ずるに言葉なし、大御所以の外に、御氣色損し、晴信をば大久保石見守に預けられ、甲斐の國に流され、大八をば、阿部川の邊にて磔罪に行はる、晴信が子左衞門佐直純には、父が所領賜りて、本國に歸さる、創業記には、此年五月、晴信配所にて誅せらると記せり、其事政事錄の中には見えず、
創業記に、直純が家人等、皆西洋天主の法を守て、此所を去る事を願はざりしかば山口を御使に下されて移さる、尙も對捍に及びなば、島津が軍勢を以て、追捕すべき由を仰せ下されしとなり、一說に高來郡中天主の法、盛に行れしかば、有馬の家人等も、其風俗に習ひ、邪法を行ふ、故に直純他國に移らん事を、望みしに依つて、日向國に移されし程に、家人等斯く移る事を願はずといふ、
此年の冬、大阪の軍起りしかど、鎭西の人々は、參るに及はず、寛永十四年の冬、直純が舊領、島原の地に、賊徒起りて、追討の御使を下さる、
明れば十五年正月十六日、鎭西の大名等、本國に馳せ歸り、賊徒誅伐すべき由、仰せ蒙る、直純急き馳せ下り、子息藏人康純と共に、軍勢を引具し、馳せ向ふ、同二月廿七日、藏人康純、郞等一人引具し、先を駈け、水野美濃守勝俊1と、先を爭て、詰の城に攻め入る、左衛門佐直純、軍勢を引率して、押寄せ攻め破らんとぞ進みける、追討の御使松平伊豆守信綱が使、七八度に及ひし後、有馬父子、先陣を鍋島に讓て引返し、明れば廿八日に、終に城をば攻め破る、兩日の戰に、直純父子が手の兵、疵を蒙る者三百八十人、討死は三十人とぞ記されたる、藏人康純、父に繼く、五万石舍弟八兵衞元純、所領分つ、三千石○直純卒せし年月未た聞かず康純また左衞門佐に任し、延寶七年十一月廿七日、致仕入道し、假宿と號す、嫡子周防守永純、父が讓を受け、舍弟等に所領分つ、二男求之助千八百石、三男七之助千石、共に開發の田なり、
  1. — 지면 그대로. 水野勝俊의 관명은 통설 美作守