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石川
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 石川数正 29豊臣秀吉 15徳川家康 12石川康長 9石川康勝 6徳川信康 5織田信雄 4石川清兼 3石川康正 3今川氏真 3鵜殿長照 3織田信長 3武田晴信 2結城秀康 2石川内記(数正三男) 2石川定政 2大久保長安 2石川半三郎 2石川親長 1松平清康 1今川義元 1水野信元 1高木清秀 1関口親永 1
지명 駿河国府中 2三河岡崎城 2上方 2美濃国 2信濃国 2尾張国長久手 2尾張国石ヶ瀬 1駿河国 1三河国岡崎 1遠江国三方原 1近江国 1遠江国 1三河国長篠 1摂津大坂城 1尾張国 1伊勢国 1尾張前田城 1和泉国 1尾張国楽田 1尾張小牧山 1相模国 1信濃松本城 1美濃国関ヶ原 1関東 1
德川殿御軍始の日より數正常に御陣に侍ひて、永祿四年二月石が瀨の戰に、水野殿のうちにて大剛の者と聞えし高木善次郞淸秀と戰て、高名を得たりけり、父祖が跡を繼て、德川殿の家の事司つて、第一の人にぞ候ひける、德川殿今川氏眞と御不快の事起り、かねて駿河の國府に止め置かせ給ひし若君、失はれ給ふべしと聞ゆ、岡崎三郞殿の御事數正かくと聞て幼き御身の失はれさせ給はんに、御介錯に侍ふ者なからんこそ痛はしけれ、よし〱數正罷り向つて、冥途の御道しるべ仕らんずる者をとて、只一人駿河の國に趣く、かゝる所に今川宗徒の大將鵜殿が長助と云二人の子、生捕れて氏眞歎き給ふと聞て、究竟の事こそ出來ぬれと思ひしかば、若君の御外祖關口刑部少輔殿と相謀り、若君返へさせ給はんには、鵜殿が二人の子共、返し參らせんと望む、氏眞大に悅て頓て若君をぞ返されける、數正肩に乘せ參らせ岡崎に歸り參りしを、御家人等は言ふに及ばず、國中の貴賤御迎に參り集うて、感せぬ者こそなかりけれ、三方原の合戰の時、數正織田殿の加勢として近江の國に向ふ、武田入道遠江の國に向ふと聞て取て返す、昔美濃の守護土岐が國に在りといふ淺岡の何某は、弓矢取てさる古兵と聞えしかば、數正彼が許に行き向て、此度本國に歸り候はゞ定て討死仕るべし、數正小兵には候へども弓ひき矢放さんやうは、かたの如く習て候ひき、然るに田舍に生れ育ちたる身の悲しさは、軍陣に臨まん時、鞣さし緒むすぶ樣はいまだ學びさむらはず、されば最期に何某は弓矢の骨法知らざりしと、かたきに笑はれ候はん事、骸の上の耻辱、何事かこれに過ぐべき、あはれ御指南を受けばやとて傳りてけり、夜を日に繼て馳せ下る程に、遂に其日の戰にぞ逢ひたりける、武田大膳入道この事を傳へ聞て、武士の家に生れて其道を嗜むこと、誰もかくこそあるべけれ、あつはれ德川が弓矢侮りにくしとて、感じ給ふこと斜ならず、長篠の合戰に織田殿の加勢乞ひ給ふ、信長父子武田が勢に恐て、向ひ給ふべしとも聞えず、數正御使承て行き向ひ、彼の父子迎へ參らせて已れ又味方の先駈して敵の陣を打破る、常に一方の大將承り、向ふ所破らずといふ事なく、一度も不覺の名を取らず、天正十一年五月數正御使を承て、羽柴筑前守秀吉の許に行き向ひ、彼の大坂の城に移りし事を賀せらる、明れば十二年の春より秀吉、北畠殿と不快の事あつて德川殿、信雄を助け給ひ美濃尾張伊勢の間にて、秀吉と戰はせ給ふ事凡十餘箇度、秀吉の軍遂に一度も勝つ事を得ず、此年六月十八日數正前田の城を攻め落す、同十一月秀吉信雄と中直りす、數正又御使承り秀吉の許に參る、これ兩家中平きしを賀せらるゝ爲とぞ聞えたる、同十二月秀吉北畠殿によつて、於義丸殿結城殿の御事乞ひ受けて養君とせらる、數正が二男勝千代丸、御供にぞ侍ひける、此後秀吉内大臣正二位に歷昇り關白職に任して後、德川殿に見參の事申されしかど御承引の御氣色もなし、さる程に養君を初め參らせ、數正が男も失はるべしなどゝ聞えてけり、十三年十月三日1數正妻子引具し、信濃の小笠原が人質盜み出し、岡崎の城を去て都に上る、關白大に悅び給ひ、十四年正月十八日和泉の國を賜ふ、
- 十三年十月三日 — 지면 그대로. 石川数正의 出奔은 天正13年 11月 13日이 통설
水野和泉守忠重と二人同しく彼家の軍奉行を承り、出雲守になさる、其後德川殿關白家に親しうならせ給ひし時、關白の歎き給ふに因つて、數正再び德川殿に見參す、十八年相摸の北條滅びしのち、信濃の小笠原罪蒙りて彼の松本の城をば出雲守數正にぞ賜ひける、十万石數正多くの男子あり、玄蕃允康長は嫡子なり二男肥後守某三男内記某四男主膳定政とぞ申ける、數正卒して後、玄蕃允康長家を繼ぐ八万石肥後守に父が所領を分ち給ふ、二万石關が原の戰には東國の御方として、康長中納言殿の御供して山道より打て上る、眞田が城を守るべしとの仰せ蒙て、おのが城に止りけり、慶長十八年十月十九日康長罪あつて流刑に處せらる、是は大久保石見守長安が緣坐たり、
駿河政事錄に、肥後守半三郞等と記しぬ、半三郞とあるは內記といひしが事か、又主膳といひしが事か知らず、肥後守は程なく大坂に籠りて討死せしなり、按ずるに石川が家、忠を盡し功を顯せし事、代々に絕えず、數正が身に至ても勇材武略の逞しきのみにあらず、德川殿の御爲に身を顧みず命を輕んぜしこと幾度といふことを知らず、されば忠も功もなしとは如何で云ふべき、其晩節に及んで忽に年頃の志を變じ、累代の君に背き參らせ、一生の功を空しくし、上は父祖の名を穢し、下は子孫の家を滅せしこと、誠に惜むべき人なりけり、此人さしも昔は弓矢の骨法、知らざりしをだにも耻ぢと思ひし人ぞかし、夫にかゝる名を今の世まで流しけることい、骸の上の耻いづれぞや、昔若かりし日、耻ち思ひし心を老ての後も、忘れざらましかば、いかでかく正なき振舞ひはあるべき、人の老ゆるに及では、血氣既に衰ふ、戒むること得るに在りとも傳ふるなり誠なるかな壯なりし日、命を輕んじ身を顧みざりしも、彼の血氣まさに剛が致す所にやありし、又慾あり何んぞ剛を得んとも見え侍る、士の家に生れたらん身は、老てまさに死せんとする期に及びても、猶心すべきことなり、