○藤堂家合戰渡邊勘兵衞功名の事竝渡邊始末の事
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了は若き時阿閉淡路守に奉公し、十七歲の時一日に首六つ取りたり。阿閉の家にて剛の者と言はるゝ士、十幅一丈の鶴の丸を繪に書きたる母衣を懸くる者六七人有りしに、了に此母衣を許されけり。後中村一氏に奉公せしが、小田原の北條を攻めらるゝ時、山中の城を俄に攻落すべき樣を見て、一氏を進めて頓て打破り、成合平左衞門に一氏の馬印を本丸の隅矢倉に押立てさせ、中村式部少輔一番乘と呼はりけり。秀吉錦の羽織を一氏に與へられしかば、我今日の功名は汝故なり、とて羽織を了に與へられしに、固く辭しければ、羽織の片袖を與へん、と言はれしを、夫をも辭しければ、蓮生院鹿毛といふ馬を了に與へらる。其後增田長盛に奉公せしが、關ヶ原の時は大和の郡山の城に在り。關ヶ原の軍破れて、郡山の城を受取らんと筒井伊賀守打向ふ。城代橋與兵衞、鹽屋德順等了と共に城を守るに、了は三の廓を持口とす。大將なければ、盜賊商家に入りて女童を惱す。了五百許の兵を打連れ打巡りて、盜を切殺し追散す。或夜盜賊城外の町家に火をかけんとせしを、了出て剩さず討取りしかば、これより盜來らず。敵押寄すると聞えしかば、城外の商家を燒拂はん、といふ。了、自燒は時あり、早まりて燒かば商賈騷ぎて狼狽へんも不便なり、とて止めけり。城兵雜人を合せて三千餘なりしに、士三十人、下部八百許駈落しけれども、了に從ひたる者は一人も逃出でず。又城中の士百餘人、金銀を與へずば出奔せん、といふ。了大に怒りて、城中の藏に有る金銀は皆殿の物なり。殿の仰無くて爭か出すべき。且此城を墓所と思ひ定めたる身の、金銀何にかはせん。出奔せんとの用意ならん。錢一文も分つべからず。斯かる者に兵粮米を費さんより疾く出奔せよ、と罵りて、三の廓より妻子を本丸へ入れければ、橫卷儀右衞門も續いて然したり。藤堂高虎、本多正純、郡山に押寄せて此下脫アルベシ、此時長盛は高野にて殺されしなど言振らす。大坂より馳來る士卒を合せて九千餘人有りしを、了下知して持口を配り、日夜打巡りて怠を戒む。凡將無くて楯籠るものは、各相疑ひて心々に成る事常なるに、了が下知より鎭りて城に將有るが如し。長盛、高田遠江、山川半兵衞に書簡を持たせ、城に庫の物を添へて目錄を記し、藤堂、本多に渡し候へ、と命ぜられしかば、さらば、とて大手搦手の門の鑰を、高田寄手の士に與ふ。かゝれば奉行をもて門を守らせ、本丸までも入らん、と騷がしかりければ、了使をたて、城中より守るべき門々を、寄手より人を附けられ候事は僻事にて候、といはせ、了下知して手暴く門の鑰を奪ひ返してけり。城を渡せし時、外廓の柳町より奈良の方大安寺を指して靜に兵を繰出す。能く了が法令の嚴正なりしに依りて、一人も騷ぎし者無かりけるとぞ。了は跡に殘り、鑰を取返しける時の寄手の人々に向ひ、前の仕業無禮に似て候へども、武士の義理と申す物に候。若城中の庫の物一つも失ひなん時は、增田が士共は、盜をして出奔したりと申されん事口惜く候て計ひき、と言ひけれども、答ふる人無ければ、鑰を了投出し返して大門を啓かせ、殿して城を出で大安寺に至り、夫より皆人々分れ去りけり。長盛高野にて了が下知せし始終の有樣を聞き、九千の軍兵馬も凡八百匹も有らんに、能く下知したり、とて深く悅び、感狀を了に與へしとなり。了藤堂家に仕へて祿二萬石、子の長兵衞にも三千石與へられしとぞ。
新に奉公しけれども世に譽高き者なれば、高虎寵せらるゝ事大方ならず。舊臣共大に嫉み恨み合へり。大坂五月六日の軍に了は先陣の中の手なり。六日の朝道明寺に軍を進めんや如何に、と評定未だ決せず。了、矢尾平野は兵を下知すべき地利にあらず候。見て來らん、とて猩々緋の羽織を著鹿毛なる馬に乘り、千塚より五六町も打出でけるに、朝の物見堺與右衞門に逢ひ、如何に、と問へば、後藤又兵衞とおぼしくて軍を出し、早水野日向守と鐵炮を打合ひ候、といふ。了聞きて、堺に士一人添へて返し、疾く旗を寄せられよ、と云ひ遣し、頓て片山まで乘行き西の方を見れば、八尾より若江まで大坂の軍押續き、しぐろうで東方の先陣に目をかけ、馬の鼻を揃へて進み來る。了さてこそと思ひ馬を引返し、道明寺を指して進む味方を押止むる。藤堂仁右衞門、何故ぞ、と問ふ。了、あれを見られよ。手に取る程に近き敵を打捨てて道明寺に行く樣や有る、といへば、仁右衞門も、尤なり、と同心しけり。高虎、何とて進む味方を押止むるや、と母衣の者をもて下知せらる。了頓て高虎の前に參り云々なりと申せば、高虎、如何せばや、と思慮の氣色なり。了、何の手段の候べき。懸り來る敵に辭退する事や候。相懸にして打破るの外道無し、といへば、さらば仁右衞門呼べ、とて下知せらる。了聞きて、此處泥にて足入なり。陣を備ふべき地無し。敵間未だ四十町もや候らん。橫堤は是より十町許も有るべし。橫堤まで細畷の道四筋見え候。南に向ひたる味方を西向に押直し、橫堤まで進んで其處にて陣を整へ一軍せん。北二筋の道をば下知し給へ。南二筋の道を押行く味方は勘兵衞下知して、橫堤にて押止め列を正し、南北一つに合せて候はんには、必定味方の勝なるべし、と云ひて、馬印は四五町ばかり後に控へさせ、細道を乘行きて、藤堂仁右衞門、桑名彌次兵衞等に斯くといへば、北より進む藤堂新七、同玄蕃等一騎駈に馬を乘出し、我先にと西郡萱根を指して進み行くを、了見て、さらば南の味方を押止めても何の用にか立たん。疾く懸られ候へ、と云ひ捨てて、了は山土阿野村に向ひけり。高虎の士大將、我も〱と八尾道を西に地藏堂を見て駈行きしは、了、去年故有りて高虎に暇給はり候へと云ひし事の有りしに、今朝より殿の前に出て、勝敗の理己一人して計りし憎さよ。渡邊に優る武功を立てん、とて了が詞を耳にも聞入れざるなり。長曾我部盛親は矢尾の堤森ある處に進む所に、朝霧の間切より物色は定かならねども、南の方より紺地の白きもちの紋附きたる旗差させて敵懸り來れば、堤の上狹ければ、旗を後の卑き所へ下して立つるを、敵は北ぐる、といひて仁右衞門先駈して馬に鐙を合して、駈行きしかば、桑名乘續きて、一陣の下知せられ候身に一騎駈は僻事なり、といへば、仁右衞門振顧りて、渡邊が己一人武勇に誇るが口惜さに、討死までよ、というて馬を乘放し、鎗を橫たへ大音あげて懸りしを、盛親が兵鎗の鉪を揃へ堤に折敷きたるが、盛親、間遠なるに一人も立上るべからず、と下知し、近々となりける時、一同に立上り、えい〱と聲をかけ鎗を並べて敲立てければ、仁右衞門其處にて討死し續いて懸りける。藤堂が軍兵㗢と崩れ、冑の緒を締めたる士六十三騎步卒三百餘人討たれて、一支も無く敗北しけり。了は山土にて向ふ敵を追崩し、南を見れば先陣敗れて、旗を捨て我先にと逃ぐる處に橫樣に駈向ひ、盛親が亂足を追返し、仁右衞門等が討たれし地を踏敷きたり。盛親は矢尾一町ばかりの西に橋を後に當てて控へ居たり。了愈勇み切つて懸らばやとは思へども、先に首取りたる者共皆旗本に行きて、了が左右三十騎許に過ぎず。斯る處に母衣の士山岡兵部已下七八騎馳來りければ、了頓て押寄せて盛親が陣に切つて懸る。山岡兵部、矢倉長藏二人は南の方に懸離れ、思ふ程戰ひて晴なる討死をしたりけり。了が兵少ければ少し引退きて、畑の高く卑き地を便に兵を集め、盛親と互に間近く睨み合ひて控へ居たる處に、高虎使をもて、何故に引退かざるや、と七度まで下知せらる。了聞きも入れず。此一陣にて强敵を切崩し候。旗をだに押詰められば、北ぐる敵を追つたて大利なるべし、と答ふ。高虎また使を立て、今朝死すべき所を遁れ、面目無くて退かざるやとて引返せ、と下知せらる。了聞きも敢ず、斯る廣き軍場にては、勝つも負くるも所々にて樣々に分れ候。味方の物主軍の道を知らず。下知する業も無く、疎駈して敵に切崩され、多くの味方を捨殺し旗をも棄てて敗れ候を、殿には忠と思召候哉。心得難し。斯く申す渡邊は、今朝より敵に比ぶれば五分一又は三分一の軍兵にて每度打勝ち、八尾にて味方を扶け橫合に敵を破り候。渡邊無くば味方は泥に追入れられ、一人も殘らず皆打たれ候べし。淺間しき味方の物主の有樣に候。盛親僅の兵にて控へ居るを討漏さば、殿の弓箭の恥なるべし。疾く旗本を寄せ給へ。盛親を容易う討取り申さん、とて彌退く色は無かりし處に、直孝軍に打勝ち、赤旗押立て勇み進んで押來りしかば、盛親が旗本色めきけるを、了見て、時こそよけれ、と㗢と切つて懸り追立てたり。久寶寺より城兵も足を亂して敗北するを、剩さじと鐵炮を打懸けて追詰むれば、盛親が旗竿も悉く打折られたり。了は三百餘人の首を取り、平野まで進んで取固めければ、道明寺口より敗北して城中に引入る。敵道を塞がれ詮方無くためらひ居しかば、了大に悅び、高虎の許に使を立て、敗軍の敵數萬の歸路を立切りて候。軍兵をだに賜はらば、疲れ果て氣おくれしたる敵を殘らず打破り、大坂の城をば藤堂一手の武勇にて攻落し申すべし。疾軍勢を寄せ給へ。平野を固く守り、敵を打破らん事掌の中にあり、と云ひけれども、高虎更に用ひず。使を立て、何とて引返さざるや、と怒らるゝのみなりしかば、了も力なく平野に火をかけ軍を返しけり。これも平野の煙にて城中に引入る敵を妨ぐるの術なり。此時高虎兵を進めば、眞田も毛利も城中に歸り入る事を得まじきに、と世に言ひしとぞ。直孝、高虎の陣所に行かれしかば高虎對面し、今日先陣におくれたる者の候て、同姓にて候物主數多討死し口惜く候、と語られければ、直孝、我敵に勝ちて北ぐるを追ひ候時、筵の差物差して軍兵を下知せし士大將の候ひしに、强敵を切靡け軍兵を下知せし有樣、天晴大剛の物主にて候。其人は如何に、と問はれしに、高虎物も言はず。其時了冑を脫ぎて進み出で、筵の指物差し候男は此勘兵衞にて候。天の冥加にて、今日の武功を井伊殿見屆け給はり候、と大音に申せば、高虎愈怒り憎まれし程に、了終に藤堂の家を去つて京都に赴き睡庵と號し、寬永年中まで存命居たりしとなり。