後藤又兵衞政次、秀賴に招かれて大坂城中に有りけるが、夏の軍評定に、政次、國府越くらがり嶺に打つて出で、地の利に據りて軍するの外道無し、といへば、則ち大和口の先陣して平野に打出でし處に、東照宮より相國寺の瑤西堂を使にて、關東の御味方に參らば、播磨國を賜はるべき由なり。政次、仰せ誠に忝しと申せども、御味方仕らん事思ひも寄り候はず。今大坂の勢强く關東危く候はば、別に存ずる旨も候べし。今大坂の運傾きて、秀賴亡びん事近きに候。其を見て二心を抱かん事は弓矢取道にあらず候。此由を申されよ。是は物語にて候程によく聞かれよ。今日本國に弓取多しと言へ共、政次に優れる者有りとは覺えず候。其故は、去年より政次を賴み思召候は、高麗まで攻められし豐國明神の嗣にて候。また政次內通せば、天下分目の軍容易く破るべしと仰せられ候は、德川殿にて御座しまし候。天下の勝敗を政次一人が身に懸けたるは思出ならずや。死しても冥途の面目なり。政次生きて候はば、一日に破るべき大坂も十日は支へ候べし。政次死したりと聞えなば、百日守るべき大坂も一日の中に破れ候ひなん。政次疾く討死するを、德川家の恩に報ゆべき志と存ずる也、といひけり。
○後藤又兵衞が事
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後藤は元黑田長政の士大將なり。長政或時物語の序に、今我に代りて軍兵を下知し、大功を立つべき者我士大將の中に誰ならん、と言はれしに、菅政利、人々各其器量有りと申せども、又兵衞に肩を並ぶべき者は候はず、と答ふ。長政飽まで勇將なりしかば、政次が武略を妬まれし故氣色惡く見えけり。政次豐前の小熊の城に在りて、隣國細川忠興と中惡かりければ、實は小倉の防なり。故有りて政次が子隱岐追出されしを呼び返し給へ、と長政に申せども、聞入れられず怨むる時、政次が二男又市を長政籠せられし1が、博多の祇園の宮にて猿樂の有りし時、鼓を打て、といはれしかば、小熊に行きて斯くといふ。政次怒りて、父子共に出奔しけるを、忠興鐵炮二百に士を添へて迎寄せられしかば、長政と旣に軍に及ぶべく成りしを、江戶より和平せられ、政次をば何方になりとも送り候へ、となりしかば、忠興、政次を餞して酒宴あり。松井佐渡、有吉賴母並び居たりしに、忠興、我黑田の家と不和なれば、之より後の事計り難し。長政の軍だて能く知つたるらん。如何にして討勝ち候べき、と問はれければ、政次、兩方に加勢も無くて軍あらば、國の大小と申し必定甲斐守打勝ちなん。され共容易く勝つべき計の一つ候。甲州は人に越えたる勇將にて、いつも先を駈けられ候。鐵炮に優れたる士五十人許擇みて、鎗の合ひ候時五人討取りなば、其中に必ず甲州有るべし、と答へて出でしを、さばかり長政を恨みて出奔せしに、今長政の武勇を譽揚げつるぞかし、と感ぜられけり。政次、安藝に船を停めし時、正則福島丹波をもて招かれしかば、三萬石の祿にて仕ふべし、といふ。正則、いや〱丹波を始として皆二萬石與へしに、政次に三萬石過分なり、とて聞かず。丹波、今政次に三萬石與へられば、政次だに三萬石なり。丹波も他の家に行かば四萬石なりと人申すべきにて候。是臣等が武名を揚ぐるにて候、といへども、正則同心無くて、丹波行きて斯くと傳ふ。此より前關ヶ原の軍に、浮田秀家の兵七八十人亂れ足に成りて、正則の軍の前を落行きしに、丹波卑き地に有りて知らず。正則の旗本より告知せければ追駈けたり。此時政次丹波が前に來り、引後れたる敵あり。など追討たざるや、といふ處に、首數多取り來りしかば政次大に譽めて歸りしが、丹波は政次に敎へられしと世に言ひあへり。丹波心に怒りを含み居たりしかば、此時語り出し色を變へて、我に敎へたりと世に言ひ振れられしや、と言ひけるに、政次打笑ひ、器量の小き人よ、我と足下と武功相同じ。我足下の下知を受くべきや。足下又我に敎へられて功名すべきや。人の言へばとて怒られけるこそ可笑しけれ、と答ふ。丹波詞無くて歸り、政次は我に大に優れり。及ぶべきにあらず、と譽めたりけり。
- 誤植籠せられし — 底本「籠」。振り仮名「ちよう」から「寵」の誤植か。