能登守平信吉は畠山庄司次郞重忠十六代の後胤也、元久二年六月重忠幷に嫡男重保父子討たれし時、二男小次郞重秀は免れて、武藏國秩父六十六郷藤田十二郷二つの庄を傳領し、是より秩父とも藤田とも名乘りしなり藤田右衞門佐重利が時に至て、鉢形の城に住して用土七郷の庄をも打從へ、八王寺天神山等の城を構へて移り住む、關東の管領上杉にぞ屬してける、藤田太田とて上杉が下にて二人の大名といふ上杉が家衰へ北條が起るに及んで、關東の侍悉く北條に隨ふ、左京大夫氏康北條三男新太郞氏邦を賜て右衞門佐重利が子となし、秩父安房守重氏と名のらす、重利重氏に鉢形の城を讓り、我身は用土の城を搆へて移る、天文十七年の冬氏康が六男氏光に、重利の武勇にあやかれとて、重利に請て右衞門佐と名のらすれば、重利是より用土新左衞門尉と名のる、重利永祿三年八月十三日に死す、重利に實子あり兄は用土彌八郞、弟は同く彌六郞といふ、氏康重利が所領悉く二人の男に賜てけり、兄は用土藤田及び相摸の内にて所領給ひ弟は武藏の地千五百貫を領せしといふ彌八郞成人の後、新左衞門尉重連と名のる、天正六年の春上杉彈正大弼入道謙信卒して後、上野國沼田の城、安房守重氏に降る、左京大夫氏政氏康の嫡子重氏が兄也用土新左衛門尉重連して彼城を守らす、安房守重氏これを恨み、われ氏康の子にして氏政の弟なり、縱令故新左衞門尉重利が子にならずとも、是程の所領ゆづられざらんや、ましてや此沼田の城は重氏に降りしを、又重連に賜はるこそ安からねとて、頓て重連に毒すゝめて殺しぬ、氏政重ねて重連が弟彌六郞信吉して、兄が跡を繼ぎて沼田の地を守らす、安房守重氏いよ〱安からぬ事に思ひ、氏政氏直父子に、信吉が事さま〱に讒す、信吉重氏を深く恨て、明れば天正七年の春武田四郞勝賴に心を合せ、重氏が兵の沼田の城に在りし輩、悉く攻め殺して城をば武田に參らせたり、勝賴大に悅て頓て沼田の城をば眞田安房守昌幸に賜る、信吉には沼田上中下の三箇庄は言ふに及はず、本領悉く賜ひ、合て五千七貫の地藤田能登守と召されて、上の沼田金剛院に舘を構て移り住む、天正十年の春武田滅ひ、信長の侍大將瀧川左近將監一益、東國の守護として厩橋の城に下向す、眞田瀧川に属して沼田の城をさけ渡す、瀧川軍兵を分つて守らせたり、此年六月信長父子も討たれ給ひ、瀧川上方に歸らんとす、藤田能登守信吉舊領なれば沼田の城賜はらんといふ、瀧川初め眞田が手より取りたる城なり、眞田にこそ返し渡さめとて許さず、信吉むかし北條に叛きし身なり、信長失せ給ひぬと聞えなば、定て氏政氏直當國に向はんに、僅なる勢にて戰はんこと叶ふべからず、さらば沼田の城攻め取て立籠り、上杉殿の加勢請うてこそ軍をもすべけれとて、越後の國に使立てゝ景勝にかくと知らせ、手勢五千餘引具して沼田の城に押寄す、かねて案內をば知たりけり、一二の城戶をば攻め破る、瀧川この由聞もあへず、當國の味方引具し都合其勢二萬餘騎、鞭鐙を合せて馳せ來る、信吉案に相違して前後の敵と戰はん事叶ひ難く、六月十三日の夜に紛れて引返し、家子郞等八十三騎引すぐつて召具し、越後の國に趣き景勝に見參し、同十月廿七日新發田の城の戰に、首八十六切つて參らす、景勝大に感し此年十二月長島の城を賜り、藤田が手の者二百五十騎、寄騎の侍五十人都合三百騎の大將に成れてけり、天正十二年の夏信吉佐渡國に押渡て、國人等を攻め從へ、常に景勝が先陣して國中の亂を平らけぬ、同き十七年十一月景勝都に上りて豐臣關白に見參あり、從三位に叙し中納言に任す、家人直江山城守兼續、四位の侍從になされ、藤田能登守信吉等從四位下に叙す、明れば十八年北條滅び、文祿の初朝鮮の軍起り、本朝の大名悉く軍勢を引具し、肥前國名護屋に馳せ集る、中納言景勝安藝の國に差懸り、宮嶋の宿に陣取らんとす、上杉が侍大將安田上總介先陣に打つ、かゝる所に德川殿の御勢六七百、既に宮嶋の宿に陣を取る、安田德川殿の御家人に使立てゝ、抑も此度都にて路次の先陣後陣定められしに、上杉は三番德川殿は四番とこそ承れ、それに上杉に先達て陣取らせ給はん事、叶ふべからず、速に此所をさけ渡さるべしと云はせければ、忽に爭論起り同士軍せんとひしめく、藤田能登守信吉、上總介に繼きて押來り、此由を見るよりも兩陣の間にかけ隔て、德川殿の御家人村越茂助等に對面して、御勢既に此所に陣取らせ給ふを、追たて參らせん事も穩便ならず、又先陣の陣取らん所を、後陣の人々に取られ參らせん事も、軍の法を亂すに似たり、所詮此處に景勝が陣どらんほどの宿さけ渡され、其宿さけ渡されん人々は、軍陣の御首途に、跡へ下り給はんも然るべからず、なほ先へや御陣を進め給ふべき、其餘の人々は、もとのまゝに、この宿にこそ陣どらせ給ふべけれと云ひしにぞ立所に事は平ぎける、德川殿この由を聞召され藤田が許に御使大久保七郞右衛門尉永井右近大夫なり給て、家康が家人面目を失はざりし事、信吉の計らひに依る所なりと仰せ下されけり、慶長二年の春1景勝奧に移りし時、信吉大森の城を領す、同き三年八月太閤薨し給ひ、信吉御吊使として都に上り德川殿に見參す、宮島にての事、仰せ出されて物多く給ふ、靑江直次の御刀黃金百両小袖二十領黃門急ぎ上洛あつて天下の事議せらるべき由を、よく申せとて返されたり、かゝる所に景勝石田治部少輔三成等と言合せたる旨あつて、東西に分れて一時に軍起さんとす、信吉是を强ちに諫めしに、直江兼續が爲に讒せられて誅せらるべしと聞ゆ、信吉大に恨て、おのが家に二心あらざる由の起請文書て殘し置き、慶長五年三月十三日會津を去て都に登り、大德寺に籠り居て入道し源心とぞ號しける、かゝる所に景勝が軍起りぬと聞えて、追討の爲、德川殿大坂を御立あつて伏見の城に入らせ給ひ、能登入道源心が許に御使あつて、阿部善九郞秋元越中守下野國那須の地を下し賜ひて十万石東國の御道しるべ仕るべしと仰せ下さる、入道承りて抑も入道が上杉が家を立ち去りし事、如何にもして讒人の訴ふる所を申披き、我二心なき事を顯さんが爲に、暫し其禍を避けし所なり、されば今御陣に召されん事、望む所に侍らはずと辭し申す、重て本多佐渡守正信御使を承て、信吉誠に汝が主に二心なからんには、すべからく早く召に隨て御陣に參り、いかにもして彼家滅びざらんやうを謀るべし、かくて彼家亡びたらんには、此後誰がために其忠を致すべき、汝が主速に本謀を改めて事平がん其後は汝が辭せし所をば、仰せ傳へらるべき所なりとありしかば、此上はとて見參し其謀を運らす、關が原の戰事終て後、景勝終に降人になつて參る、信吉頓て御暇給て上杉が家に歸らんとす、德川殿信吉を御前に召され、汝が主初に兵を擧て世を亂る、其罪なしといふべからず、されば天下の大法を示されんが爲に、其國削らるゝ事既に畢んぬ、去ながら其罪人爰に得て、石田等が事也彼罪にあらざる事を知れり、されば程なく其本領を返し賜らん日、汝が望には任せなん、先づ其程は關東に伺候すべしとて、信吉が夫婦に下野國西方の地を賜る、一万三千石其妻に假粧田二千石合て一万五千石又信吉ながく御家人に侍らはんには、初め賜ひし所の那須の地領せん事、相違あるべからずと仰せ下さる、信吉猶上杉が家に歸らん事を望みしかば、景勝德川殿に參りし時、信吉を召出され、ありし事共御物語ありしにぞ、景勝も心解けられける、此上は汝が志既に顯はれぬ、景勝本領賜はらんまでは、此儘に候へとて關東に留められ、其名を改めて重信と召さる、
- 慶長二年の春 — 지면 그대로. 上杉景勝의 会津 이봉은 慶長3年 正月이다