家一覧 › 第十下 › f144
織田
この家によく出る人物・地名
人物 織田信雄 35北畠具房 15豊臣秀吉 14織田信長 13北畠具教 11織田信孝 11織田長益 11徳川家康 9織田秀雄 6北畠親房 5北畠顕能 4淀殿 4片桐且元 4織田長政 4柴田勝家 3豊臣秀頼 3織田高長 3足利義持 2北畠晴具 2滝川一益 2丹羽長秀 2池田恒興 2織田長頼 2織田長政(高長三男) 2
地名 摂津国大坂 10伊勢国 8尾張国 7奥州 3伊賀国 3伊勢大河内城 3九州 2大和国宇陀郡 2近江国 2伊勢船江城 2尾張清洲城 2美濃岐阜城 2越前大野城 2美濃国関ヶ原 2駿河国府中 2伊勢松ヶ島城 1大和国吉野 1伊勢国多芸 1伊勢国一志郡 1伊勢国飯高郡 1伊勢国飯野郡 1伊勢国多気郡 1伊勢国度会郡 1伊勢田丸城 1
北畠殿と申すは村上天皇第七の皇子具平親王の御末、北畠准后入道源親房卿の三男權大納言顯能卿の後胤也、親房卿の曾祖權大納言雅家卿、伊勢の國司となり給ひしより、親房卿に至る、親房卿は吉野の朝廷に仕へ奉り、忠信良佐の譽、世に隱れなかりし御事なり、嫡男中納言顯家卿は鎭守府將軍に任して、奧州の國司となり、終に南朝の御爲に討死し給ふ、二男の中納言顯信卿も兄につぎて奧州の國司と成され、後には征西將軍の宮に從ひ奉り、鎭西に趣て是も討死をぞ遂げられける、三男は伊勢の國司にて權中納言顯能卿是なり、壹志の郡多藝に住み給ひしかば多藝の御所と申す、伊賀伊勢の間にして足利殿と戰ひ給ふこと年を經て、正平七年の春、南朝後村上天皇に供奉して、伊賀伊勢の軍を率ゐて、父准后入道親房卿と共に都に登り朝務に預り給ひき、其後吉野の皇胤絕えさせ給ひ、顯能卿の男大納言顯泰卿、後小松院に仕へ本領を安堵し、當國壹志飯高飯野多氣度會、大和の宇陀郡、都合六郡を領して、凡そ侍五千人雜兵合せて一万五千人の大將とぞ聞えける、其子中將滿雅の時、應永廿二年八月の末、義持將軍と不快の事出て來り、近江の六角伊賀の仁木等を大將として伊勢國に差向けらる、將軍の軍利なくして、終に御中直りあつて無事に屬す、其子權中納言敎具、其子左中將政鄕、其子權大納言材親此時に至て國司の威、又近國に奮ひ、其子宰相中將具國又は晴具其子權中納言具敎に至る、具敎後に嫡子具房に國を讓り、入道しておはしけり、永祿十二年の正月、尾張の織田上總介信長伊勢の國に攻め入ると聞えしかば、國司父子大河內の城に立籠り、北畠の一族家人此處彼處の城を固めらる、かゝる所に一族木造左衛門佐具康、心かはりして織田に組みし、所々の戰利あらずして敵既に大河內の城に押寄す、此所究竟の要害城中の兵共、命を惜まず防き戰ひし程に、たやすく落つべしとも見えず信長津田掃部助を使として、二男茶筌御曹司を以て新國司具房の養君とし、中直りして引返さる、御曹司時に十二歲、信長宗徒の家人等、附て船江の城に參らせられ、國司父子此所に來り給ひ、對面の儀ありて三年の後、元龜二年新國司の御妹を養ひ給ひ、御曹司信雄の北の方として船江の城に入れらる、天正三年信長の執し給ひしに依て、具房左中將に任し、信雄に國讓りて、大河內の城に迎へ入れらる、信雄家つぎ左中將に任ず、具房田丸の城に移らる、此人極て肥ふとりたる人なれば、世の人大腹御所とぞ申しける、具敎卿をば大御所と申し、又多氣郡三瀨にまし〱ければ三瀨の御所とも申す、この北の方は近江の六角の娘、具房中將の母上にてまします、其餘の公達姫君は、皆新殿の御子なりければ、大御所愛し給ふこと淺からず、嫡子具房をば子ともし給はず、まして信雄の家繼かれし事、安からぬことに思ひ給ひ、内々は甲斐の武田に心合せて、信長に背かれんとの結搆ありと聞ゆ、されば天正四年十一月廿五日、信長の家人等に、かたらはれて國司の家人等、具敎卿をたばかつてかつて安々と打參らす、年四十九歲とぞ聞えける、北畠の一族十三人、悉くに切て捨つ、國司九代の門葉一時にこそは亡びにけれ、信雄の養父なればとて、具房をば助けて瀧川左近將監一益に召し預けらる、時に年廿五歲なり、又尾張の國に迎へられ、其後都に住み給ひ信雅と改めらる、其子北畠親顯是なり、
天正十年六月二日、右大臣殿幷に三位中將殿の御事あり、此時三男三七殿、四國の地退治あるべしとて、攝津の國の地に至り此由を聞き給ひ、急き軍勢を催し都の方に攻め上りて光秀を誅せらる、信雄は近江の日野に陣取て、軍散して後にこそ都には登られけれ、去程に織田殿の御家人等、淸洲の城に會合して御世嗣の事を議す、兄なれども信雄は合戰に逢ひ給はず、信孝は父の御仇を討ち給へども弟なり、せんずる所嫡孫にて渡り給へば、三法師君を御世嗣とし御叔父信雄信孝、互に御後見たるべしとて、信雄を尾張の屋形と定め淸洲の城に居ゑ參らせ、信孝をば美濃の屋形と定て岐阜の城に居ゑ參らす、柴田修理亮勝家、羽柴筑前守秀吉、丹羽五郞左衞門尉長秀、池田紀伊入道勝入四人、家の奉行として、天下の政務執行すべしとぞ議定しける、三七殿此由を聞召し、かく亂れたる世に幼き者を主として、己等が思ふさまに國々割き取て領する事こそ心えね、又我信雄と年旣に相同じ、たゞ生れたる月の前後に依てこそ兄弟の名はあるなれ、ましてや自ら父兄の敵、忽に誅せし功あるをや、夫に秀吉おのが功に誇て、我が戰功を空しうなさんとす、是れ偏に我父の大恩を忘れ參らせ、天下を奪はんとする謀にこそあれ、如何にもして彼を誅して、再び我家を起さばやと思召したつ、秀吉此由を傳へ聞て、さらば尾張の中將殿を主君に崇め奉るべしとて、丹羽池田相語ひ信孝失ひ參らせんとす柴田修理亮勝家は故殿の御嗣と仰き參らせん公達は、美濃殿にこそおはすれとて、信孝に力を合せ瀧川佐々前田等も、同く信孝の御方にぞ候ひける、勝家終に戰ひ負て自害しぬ、秀吉やがて岐阜の城に押寄す、城中忽ち心變りの者出來て齋藤玄蕃允岡本太郞左衞門也人の心定まらず、かくては中々此城にて運開かるべしとも思ひ給はず、かゝる所に信雄秀吉が爲に三七殿をたばかつて尾張國に迎へ參らせ、內海の浦にて御腹をぞ召させ給ひける、幾程も無く明る天正十二年の春、自らも又亡さるべきに極て大に驚き、德川殿を賴み申されしかば、德川殿御勢を率ゐ給ひ、美濃尾張伊勢の國々にて秀吉の多勢を打破り給ふこと度々に及ひしにぞ、此年十月、秀吉伊勢の國に至て、北畠殿に中直りの事を望まる、信雄大に悅ひ德川殿に此由を告け申さるゝにも及はず、十一月十一日中直りの見參事終りぬ、明れば十三年秀吉關白と成て、信雄をば權大納言從三位に成され同き年に正三位、十四年に從二位十五年八月八日正二位に叙し十一月廿一日内大臣に任ず、十八年の夏關白、相摸の北條亡し給ひて後、信雄の國移し替らるべしと仰せ下さる、内府辭し申されたりければ、關白以の外に御氣色損し、忽に尾張の國押奪はれ、下野の國那須の郡に流され、此時二万石を給ひしと云やがて入道して常眞とこそ申しけれ、八月入道ありし由公卿補任に見ゆ明る年又伊豫の國に移されたり一說に關白奧州に下り給ふ時に、出羽の秋田へ移されしと創業記考異に出づ文祿の始め朝鮮の軍起り、關白筑紫に御陣を召されし頃、此入道を召し返され、御相伴の衆に加へられて、常に御前近く伺候せらる、入道子息數多あり嫡男秀雄に越前國大野の城を賜て、從三位參議に成さる、四万五千石と云ふ、世に大野宰相と云傳ふれど、公卿補任に此人の參議なりし事は見えず太閤薨し給ひて後、慶長五年の秋大坂の奉行等、德川殿失ひ參らせんと計りし時、石田治部少輔三成、此入道に使たて、秀賴の仰として急ぎ元の御家人等を召し集めて御勢を催され、內府を討せ給ふべし、先づ物の具の料に黃金一千枚參らせられ、又尾張の國は御本領なれば領せさせ給はんこと相違あるべからずとぞ謂せたる、入道悅ふ事限り無く、やがて御方に參るへき由を領掌せらる、先づ昔の家人等召集て、物の具拵へよ馬求めよ、さらば其料に黃金賜はらんとて、彼の使に附きて奉行等に乞はせければ、只白銀一千枚をぞ與へける、此定ならんには尾張國賜らんことも、いかであるべきと、持て扱ふたる內に子息の宰相、大野の城にて此結搆を聽き、大に驚き急き使して如何なる事ありとも當家の人々、德川殿に向ひ弓を引き矢を放つ事や候ふべき、斯るあさましき御結搆こそ候はねと敎訓したりければ、入道聞て是も又謂れあり、此上は如何がせましと案じ煩ふ內に、關が原の合戰事終りぬ、子息の宰相、加賀の中納言利長と共に大津の御陣に參られけれど、仕出したる事もなければ、唯何となく所領せし地失つて、入道其後は淀殿の所緣に附き大坂に下り住はれけり、同き十九年の秋大御所、片桐市正且元を駿河に召され、仰下さるゝ旨あつて大坂に歸る、片桐が計る所、秀賴の御心に叶はず、せんずる所、片桐を切て軍起されんや否やと、この入道を召て議せらる、入道承て今天下の大名を數ふるに、誰かは故太閤の御恩蒙らぬ者や候ふ、御勢を催されんには、なとが從ひ參らする者なからざらん、御手の軍勢も猶一二万もや候はんずらん、この入道も若き時、一二万の勢をば形の如くに使ひ馴て候ひき、老後の思出に一方の大將を承り、ゆゝしき振舞して見參にこそ入れ侍るべけれと申されしかば、淀殿を初め參らせ、悅ひ給ふ事限りなし、萬事は皆入道の計ひに任せ給ふ所なりとて、軍起さるゝにぞ極つたる、入道又如何が思ひ返しけん、片桐が許に竊に使立て、有りし事共一々に告げ知らせ、我身は夜に入て風雨に紛れ、大坂を落ち失せ都の方に隱れ居て、大御所都に登らせ給ひぬと聞えしかば、やがて二條の御城に參らる、明れば元和元年五月大坂の軍終て後、七月廿三日大和の國宇陀の郡をぞ賜びたりける五万石寬永七年四月晦日、積る年七十三歲にて終られけり、五男出雲守信友父に繼く、是よりさき寬永六年從四位下の侍從となる、万治二年十二月廿三日致仕入道して一岩と號し、八十五歲にして延寶二年八月十八日に卒す、嫡子山城守信尙父が讓を受けて、万治三年十二月廿八日侍從に任ず、是よりさき慶安元年十二月晦日に、從四位下に叙し山城守に任す、二男式部少輔友貞なり、是れ後に對馬守と云ひしが事にあらすや
源吾侍從平長益入道有樂は、備後守信秀の十男、右大臣信長公の御弟也、右大臣殿の御事ありし時、同く御所にさむらはれけるが、如何にしてか迯れけん、命生きて其後豐臣家に仕へ四位の侍從に成る、程なく入道して有樂とは申せしなり、淀殿の御伯父なれば、年來大坂に在て秀賴の御許に伺公せらる、大坂の軍起りしかば、凡そ軍の成敗をば此人にぞ任せらる、老將にてはあり殊に親しき御事なり、十餘万の軍兵、賴しき大將にこそ思ひけれ、東西御和睦の議始りて、此人まづ人質を參らせてければ、城中の人々互に心を隔てつゝ、終に御和睦は事なりぬ、入道頓て駿府に使者を參らせ、本多上野介正純に就きて、入道今度思はずも、大坂の城に在り、既に御陣に參らんとせし處に東西の御和睦事成つて候ひき、あはれ御免しを蒙て京堺の間に籠居せしめ、餘命を送り候はばやと望まる、程なく又大坂の兵起れり、入道の四男左衞門佐長政、大將軍を望む城中宗徒の人々、父の入道に手でりして敢て許さず、長政怒て我れ信長の甥にして淀殿の從弟なり、大將軍を承らんに何條かあるべき、此上は城に籠つて詮なしとて都に趣く、入道は駿府に參るとて、尾張の國名護屋の城にて大御所に參り逢ひ、大坂の事共悉くに告け申さる、大坂の軍終て後、所領の地下し給ふ、左衞門佐長政、父の入道卒して彼が所領の地分ち賜ひ、大和の國芝村一万石有樂入道卒せし年月いまだ知らず万治二年十二月廿三日、致仕入道してト齋と號す、其子豐前守長定、讓を受く、其子主殿長明、其子內匠頭長淸、實は山城守信尙が子なり、
- 入樂入道 — 底本のまま。「有樂入道」(織田長益)の誤植とみられる