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○高橋紹運討死の事附立花統增薩摩に囚るゝ事

卷之八 第7話 · 段落 6 · NDL 1078984 149コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

島津義久、島津圖書忠長、伊集院右衞門大夫忠棟を大將として、兵五萬を以て筑前岩屋の城主高橋紹運を攻む。岩屋は要害の地に非ず、寶滿が嶽に楯籠て防ぐべし、と言ふ者有り。紹運、爰を去て寶滿が嶽に入りたればとて勝つ可きに非ず。敵に恐れて逃たりと誹られんも口惜し。此城を墓に定めたり、とて尠とも動かず。四方を圍みて嚴しく攻めたりけれ共驚く色も無し。義久の士大將新納武藏守忠元矢留を乞ひて、城中に申す可き事の候、と呼はりければ、紹運聞て、何事にか候、と問ふに、新納申しけるは、紹運の武勇世に名高しと雖も、大友家に組せられ、亡び衰へられん事近きに有り。大友家は切支丹を崇め、無道にして復家の興る可きに候はず。古き詞に一張一弛と申す事の候。疾義久と和平せられ候へ、と言ひければ、紹運聞きて、斯申すは高橋家にて麻布外記と申す者にて候。只今承り候旨紹運に申す程の事にも候はず。聊義の當れる所を申すべし。人々能聞れ候へ。凡盛衰消長は時の運にて、古の細川、畠山、赤松、山名を始として今川、武田、近國にて尼子、大內等、一度は盛にて一度は衰へずと言ふこと候はず。紹運今の限に成りてよも冑を脫ぎて降參せうと存ず可きや。大友の家も右大將賴朝卿の時より子孫國を受傳へぬれど、日向の軍に敗れしより貳心有る者多く出で來て、今斯く衰へたり。然れ共今にも秀吉公大軍にて九州に渡らせ給ひ、薩摩に攻め入られんに、鹿兒島の破れん事も遠からじ。勢盡き運衰へぬるを見て志を換ふるは、弓箭取る身の恥辱にて、人に爪彈せらるべし。松壽千年終に朽つる事ぞかし。人生は朝露の日影を待つが如し。只永く世に殘らんものは義名に有りと覺え候程に、降參は仕らじ、と高聲に呼はりければ、新納も又言ふ事も無かりけり。外記とは名乘りけれども、紹運ならで斯る詞戰せん人や有る、と云ひ合へり。斯くて猶降參を勸めて莊嚴寺の僧を使にしけれども聞き入れず。然らば攻めよ、とて天正十四年七月二十七日四方より押寄せ、閧の聲を作りかけ、えい〱聲を出して攻めたりけり。城中には思ひ設けたる事なれば、爰を限りに防ぎけれども、終に打破られけり。三原紹心は、
と一首の歌を塀の柱に書き殘して討死す。弓削平內は强弓の手利なり。矢倉に上り差詰め引つめ箭種を惜まず射伏せけるが、左の手に痛手を負ひ、敵の中に駈け入つて討れたり。高橋越前守、伊部九藏も聞ゆる弓の手練にて、物具の爽なる敵を目に掛けて數多射倒し、矢種盡きければ太刀の切先を揃へて討つて出で、散々に戰ひ一足も引かず討死しけり。尾山中務が子太郞次郞十六歲なるが、父と一所に死なんとて出でけるを、母袖を控へけるに、振切つて敵の中へ駈け入り討死しけり。其片袖母の手に殘りけるとなり。寄手も討たれし屍に四方の谷を埋みぬ。旣に城兵殘り少くなりしかば、何しに猶豫す可き、とて討つて出で、喚き叫んで戰ひけるが、最期の軍よも人に笑はれじ。いざ、とて或は腹を切り或は敵と引組んで刺違へ、枕を並べて討死す。紹運は江淵右衞門大夫、三浦式部、黑岩隼人に、女童共皆刺殺して敵の手にな懸けそ、と下知し、薙刀打振薙いで廻られしが、今は是迄なり、と和歌を門の扉に留められけり。
かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ雲ゐの空に名をとゞむべき(一說、ながれての末の世遠く埋れぬ名をやいは屋の苔の下水)
斯くて行年三十九歲にて自害して失せられけり。士卒を憐み深く義厚かりしかば、救も無き城を守りて千八百人の士卒一人も迯散る者の無かりしは、例少き事なり。紹運始は鎭種と申しけり。
一說に、城中の婦人は悉く圍るゝに先だちて寶滿が嶽に入れられし故、害に會はずと言へり。又紹運薩摩の軍を見渡したるに、馬煙黑く押來る。紹運人々に向ひ、今押來る敵六十已下二十歲已上の者共なるべし。今軍に打勝て吾者共悉く討死すとも、彼敵兵も又三四十年を過ずして野原の白骨となるべし。人生は朝露の日影を待つが如し。義名を萬世に殘しなん事武士の本意なり、と言はれしかば、城兵勇氣十倍せし勢を透さず、一陣に成りて薩兵を切崩し、一人も殘らず討死すとも言へり。又寄手の大將を島津家久なりとも言へり。紹運の物具の引合に一封の書有り。島津中務殿と書きたれば、家久是を讀むに、今度降參を勸めらるゝの諫に從はず、是義の故なり。別に一封の書を大友に送り屆け給はり候へ、となり。中務、類稀なる勇將を殺しけるよ。此人を友とせば如何ばかり嬉しからんに惜き事よ。弓箭取る身ほど恨めしきものは無し、とて僧を供養し葬禮を執り行ひ、壇を築きて家久香を燒き再拜しければ、義を感ずる國風にて薩摩武者皆燒香して淚を流し、紹運を稱美しけると言へり。又一說に、天正十四年六月、島津圖書頭、伊集院右衞門大夫、兩先陣にて筑後國高良山に押入り、島津義久、同兵庫頭義弘は肥後八代に旗本を陣し、所々を燒働す。筑紫廣門の方には兼て懈りて有りしかば、俄に騷ぎ立ちて防戰の備す可き樣も無し。七月七日薩州の軍筑後川を涉り、其明の日廣門の館を取圍み廣門を虜りたり。同月十三日先陣の兩將太宰府觀世音寺に著陣す。其外龍造寺政家、秋月種實を始として相加り十萬餘に及べり。岩屋の麓筑山橫岳二日市太宰府の邊尺寸も透間無く陣し、兩將より莊嚴寺の僧を使として、此度太宰府に攻め寄せ候は、紹運に對し弓箭取る可きに非ず候。筑紫廣門二心有るに依り是を討つ可き爲にて、旣に廣門を生捕りぬ。寶滿が嶽に紹運の實子を置かれ候て、堅く守らせられ候事謂れ無きに似たり。疾く〱寶滿を渡され候へ、とぞ云ひ送りける。紹運、承り候ひぬ。素より一言の仰無く、押て大軍を以て某が守り候城下を馬蹄に蹴散され候事、弓箭の禮に非ずと申すべし。扨統虎も道雪の家を續て立花と稱す紹運も今に有りては關白秀吉に屬し候へば、寶滿も岩屋も關白の城にて候を、渡し參らする事存じも寄らず候、との答を使僧歸りて云ければ、とても弱々と城を渡す可き紹運に非ず。去ば圍む可し、とて諸手口々の攻手を定め、七月十四日より柵をふり、矢合を始めたり。然れ共城中堅く守りてひるめる體も無く、未申の方尾山中務が持口より、鐵炮弩弓を以て城へ攻め寄せたる寄手に打懸け數百人打殺し、手負は數を知らず。或時嶺の手の寄手より矢留を乞ひて、新納藏人と申す者にて候。紹運公に申す可き事候、と言へば、紹運麻布外記と名乘りて詞戰ひに及べり。藏人詞を盡し利害を說き、大友殿には切支丹の宗門を尊信有りて、神明佛法を蔑にし、天道に背かれし故人心散々に成り、滅亡近きに候とて、島津に屬せられ候やうに申し給はらんや、と言へ共、紹運節義を說きて屈服の色無く、來春は關白九州へ兵を出さる可く候。然らば島津家の存亡も計るべからず。主の盛なる時は忠を致し、衰へたる時も操を替へざるを以て、弓箭取る身の道とす。各達島津家滅亡の時に臨んで、躬を隱す謀を廻らされ候へ。只今夥しく目に餘る十萬の士卒も、百年の齡を保つ可きか。斯る心も候ひなんには士の義たる道をこそ存ぜらる可けれ、と答へて、降る可き事は思も寄らず。兩將重ねて莊嚴寺の僧を使として、八ヶ國の大軍を引受け、堅固に城を守らるゝ事廿日に及べり。紹運公の武勇九州に無雙たるべし。寶滿立花岩屋とも子細候まじ。和談を取結び軍を返し、圍を卷ほぐし申すべし。然れ共十萬の軍兵の覺にて候間人質を一人賜りなんや。然らば此後大友島津和談は、紹運公の心に有るべし。事成りたらんには其時人質を返し、九州一統島津に屬しなん。其後中國に押渡り、島津家天下に旗を立て候べし、と云ひ送りしかば紹運許容せず。人質を關白か大友家に出さん事はさも有りなん。秋月種實龍造寺に組し、夫より一同に九州の亂に及べる根本の人なれば秋月に腹切らせ、薩州の兩將より、今度の弓箭は京都又豐州への遺恨に非ず。筑紫廣門が反心を糺明せん爲なり、と神文を書きて賜はり候ひなば、紹運、事能く計り候べし。然らずば此城を以て墓所とす、と答へられしかば、和平も事遂げず。遂に七月二十七日に諸軍一同に押寄て、卯の刻より軍始りて午の刻の終まで、寄手大軍入替へて攻めたりけるに、手負討死言ふべからず。去ども死骸を蹈み越え息をも繼せず攻戰ふ。今日を限りと思ひ切つたる城兵、各持口を一足も引かず切死にしたりければ城陷りぬ。紹運の左右には名を得たる剛の者共五十人許に討ちなされたるが、後度の勝負をも思はばこそ、今を最期の軍なれば、當るを幸に向ふ敵に切先を揃へて討つて懸り、一陣二陣を遙の谷底へ捲り落しければ、半時許は攻め入り得ざりけり。紹運手負討死の士卒を見廻りて、死たる者には無二の忠節謝するに詞なし、と一禮し、息の通へる者には自ら氣附の藥を口に入れらる。斯る際に及んで軍兵に愛を盡されける有樣、數年城をまもり度々の軍に功を顯し、今度は萬に一つも運を開く可きに非ざる大敵の圍に、士卒一人も落散らざりし類無き事よ、と言ひ合へり。其後紹運薙刀を提げ、思ふ程戰ひて辭世の和歌を扉に書き附け、三十九歲にて腹を切られしかば、寄手攻入りて、敵ながら斯る大將も又有るべきや。士卒一人も降參せず、逃げ散る事無かりしを惜まぬ人ぞ無かりける。內室を始め刺殺すに暇なくて虜となりけれ共、深く寄手も勞り養育しけるとぞ。統增此時寶滿が嶽に有り。薩摩の兩將使を以て、城を渡されよと云ひ送る。統增今年十五歲なり。城中以ての外軍兵少く、防ぎ戰ふ可き事思ひも寄らず。秀吉の出師を待ち受く可き間、暫く生き延びて時を窺ふに如ず、と相謀り、統增を立花に送り屆け給はりなんには和平すべし。然らずば城を枕に切死すべき、と答へければ、兩將より、子細あらじ、と許諾し、神文を書きて送りしが、俄に約を變じ謀りて立花に送り返さず。其後肥後の吉松と言ふ所に移し番兵を附け置きたり。紹運の內室は筑後の北の關と言ふ所に移し置き、偖立花へ使を以て、降參せられんやと言ひ送る。統虎實父にて候紹運は、關白の爲に自害を遂げ候ひき。我又紹運の爲に自害を遂ぐべし、とて、軍兵を寄せられよ。此城の切岸にて箭一つ仕らん、と答へられけり。斯る處に八代に陣せられし義久より兩將に下知し、秀吉師を出して打向はるゝ由云ひふらせり。疾く兵を返す可し、と有りければ、八月二十四日兩將太宰府を引き拂ひぬ。統虎陣を押出し、高取の城を攻落し、城主星野中務大輔兄弟を始め悉く討取り、夫より岩屋に向はるゝ所に、立花の內小野理右衞門と言へる者忍び入りて火を懸けたりしかば、狼狽て騷ぎ一支もなく迯げ落ちけり。秀吉感狀を賜はり、大に稱せらる。統虎又密に龍造寺に、北の關に押込められし母を奪取り給はらんや、と賴れしに、龍造寺も薩州と弓箭を取るべき志有りしかば、心得候、とて堀江覺仙と言へる者に軍兵數多指添へて、北の關に押寄せ、薩州の番の者を追散し、紹運の後室を奪ひ取り頓て立花へ送り屆けたり。後室此比は法名を宗雲と言ひしとぞ。斯くて薩州には統增を八代へ移し、高津加の法華寺に置きて、警護の兵に嚴しく守らせたれば、附添ひたる者共種々に謀を廻らせども、本國とは遠ざかりぬ。謀も爲可き術なく日を送りけるに、尙心元無くや有りけん、薩州に移し下堂院と云ふ所に置きけり。秀吉九州へ渡海し、先陣薩州千臺まで進まれしかば、統虎使を以て、統增を渡し給はらんや、と義久の陣へ云ひ送られければ、義久子細に及ばずして返し參らすべき由答に及びしかば、十時攝津守を迎として下堂院に遣し、附添ひたる面々も殘りなく引取り、千臺へ行く道海邊を過ぎけるに、秀吉の軍兵船を掛並べ居たるが、落人と見て剩すな、とて小船に乘り、ひた〱と陸に上り取圍まんとす。十時勝れて賢き者にて、邊に有りける小船を借り本船に漕ぎ寄せ、統增なる事を斷りければ、大將と覺しき者船屋形に上り、采配を取つて諸卒に下知し靜めければ、虎口を遁れて千臺に著き、兄統虎の陣に入りて對面せられけり。此統虎は後に左近將監宗茂とて驍勇無雙の大將なり。過にし天正十年十月六日、秋月と道雪、紹運、宇龍野にて軍有りし時、紹運自薙刀を把り烈しく戰はれしに、統虎十六歲にて初陣なりし。其器量を見て、道雪養子にして家を嗣す可き事を紹運に乞ひて、吾子にせられしとぞ。