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○福島正則領國を召放さるゝ始末の事

卷之十九 第16話 · 段落 8 · NDL 1078984 309コマ R

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本多上野介正純に就きて、廣島の城池を浚ふべき旨を申す。申上ぐべき由を答へられしが、御上京の事繁きに紛れて其事無かりしに、廣島の城普請の事を聞し召し怒らせ給ひしに、正純其時驚きて、正則の書翰を出されしに、證文の出し後れとて、聞召し入れられずといへり。
板倉伊賀守勝重、此事は井伊掃部頭直孝に仰せ聞けられよ、とて直孝を召す。御前に參りて、福島左衞門大夫國を召放たるべき事故召され候や、と申す。其事なり。誰か使にせんと思ふぞ、と仰せあり。直孝、京都よりの御使ならば、江戶に殘れる者、是程の事辨へざるやと申す事も候べし。只今江戶に罷り有る者に仰せ出され然るべし。又正則を京に召され、罪の趣仰せ出され申譯有るか、又は國に引籠り思慮せよと仰せられ候ても然るべく候。事に依り直孝罷り向ひ打破り申すべし、と申す。和泉守、若き掃部頭には似合たり。但福島もさすがの者にて剛の者餘多有れば、小路軍になりて如何に有らん、と申す。直孝、和泉守は何方にて小路軍をしたるぞや。直孝が家には武功の老武者多し。古き戰の軍を聞きしに、今川氏眞の許にて、濱松の城主井伊隼人を氏眞の城下へ召し寄せ誅せられし時、小路軍に成りて殊の外難かしかりきと言ふ唯一事を聞きたり、と云へば、和泉守詞無し。台德院殿、いはれざる小路軍の論ぞ、とて先退出せられしが、井上主計頭を以て再び直孝を召し、仰には、我思ひたる所も汝が言の如し。人々皆口々に言ひて一同せず。掃部が存ずる旨に從ふべし。扨誰をか使にせん、と仰せなりしに、直孝、斯樣の使久世三四郞、坂部三十郞兩人好かりなんと存ずるなり、と申せば、是も符合せり、との仰にて兩人使たり。斯くて酒井雅樂頭忠世太田善太夫を近附け、福島左衞門大夫領國を召放たるべき由仰せ出されたり。福島は然る者なり。如何なる事をか仕出すべきと危く思ふなり、と語られければ、太田、否何事か致すべき、と事も無げにいふ。酒井、又例の橫著なる詞かな。危き事と思ふなり、と申されければ、太田、ならざる事をする福島に非ず候。爲べきを知らざる者こそさは候べけれ。福島は非道不仁の男なれ共、勝負の理を能く知りて候男なれば、何事も仕出さじ、と言ひしが、果して一言にも及ばず、仰の旨を奉りたりき。
六月に福島領國を削らるゝ旨廣島へ聞えければ、福島、丹波1諸士を皆呼集め、預け置かれたる城なれば、公方の仰せなりとも渡し難し。又備後守殿爲なれば渡すべきか、と評論す。上月文右衞門進み出でて、人は如何にもあれ、我は本丸を預りぬる上は、命有らん限は人に渡すべからず、と申切つたり。丹波心得ざる氣色なり。村上彥右衞門聞きて、福島、上月兩人の思ふ所に、同心の面々別々に判形せられよ、とて二通書きて指出す。酒井主膳とて丹波が從子なるが、座を立ち鎌田主殿を呼び、如何に思ふぞ。丹波は伯父なれども上月が言ふ所尤なり、と言へば、主殿も上月に同心して判形をしたりければ、皆是に同心しけり。其時上月、人々皆斯くの如くなれば、丹波が妻子を本丸に入れらるべきや、と言へば、丹波卽ち妻子を本丸へ入る。夫より我先にと妻子を籠めけり。城を受取るべき爲に諸將打向はれしかば、丹波、吉村又右衞門、水野治郞右衞門二人を使として、左衞門大夫領國召放たれ候により、仰の旨は謹んで承り候。然れども主君預け置かれし城を、證據とすべき書簡無くて渡さん事は、人々の存ずる處思ひ遣られ候。次に領國に入り給はん事、田舍の若き奴原無禮の恐れ有り。領國を避けられ候へ、と申し送る。さらば左衞門大夫は程遠し。伏見に有る備後守の書簡を證據にせんや、と云はせらるゝに、父子たる事は論無しと雖も、備後守が領國にも城にも非ず。備後守が言は用ふるに足らず、といふ所に正則が書簡來りしかば、城門の大手にて書簡を受取りぬ。さて廣島は船入二所有り。人多く騷しくて、士共の妻子退き去る時爭有るやの恐れも候、とて一方をば人を止め、一方の口より退散す。城中の士は門の左に附き禮服して並び居、城受取の使安藤對馬守重信は、城門の右に添ひて城に入りけり。
  1. 誤植 — 底本は「福島、丹波」と読点を打つ。「福島丹波」で一人か(続帝国文庫本は読点なし)。
安藤城門に入る時、並び居たりし人々に向ひ、左衞門殿事申すべき樣も無し、と詞を掛けらる。其時皆禮せしに、獨茶筅髮にてしかみの撞木杖をつきて、對馬守の詞を聞き傍を見て禮しけるを、山崎甲斐守見て並々ならぬ人なりと知りて、姓名を問ふに、長尾イ屋出羽と答ふ。山崎退散の後家族を養ふべし。又他國に行く中寓居せられよ、とて使をもて云はせられしに、出羽、甲州の御事は承り及びたり、忝き旨を謝す。軈て森美作寺2忠政禮を厚うして招かれしかば、森家に仕へけるとなり。
  1. 誤植 — 底本「寺」。振り仮名から「守」の誤植か。
丹波と文右衞門とは密に相計りて、初より楯籠るべきと言ひて同心する人無き時は、別にすべき道無き故に、事を二つにして士の心を試みたるなり、と其比言ひ合へり。さて後城を守るに決せし時、丹波、上月に向ひて、吾と文右衞門腹切つたらば、何事も外にすべき事無し、と言ひしとかや。
左衞門大夫罪せらるゝと聞きて、暇を乞ひたる士三十人許有りしかば、狹間潛と言はれけり。妻子を本丸へ入れたるは諸籠と名附け、妻子を城外に出し、其身のみ城を守らんと言ひしは片籠といふ。後に京都耳塚に札を立て、三色に分ちて姓名を書きて世の人に見せし故、狹間潛の面々は餓死に及びぬと言へり。上月は祿五千石、士大將たり。正則、上月が志を感賞し、書簡を與へらる。今度我等事御預に成り候。是に依りて城を枕と存候由心底察入候。然れども存寄有之候間、早々城相渡し可申候。貴殿志之段不淺過分之至に存候。とぞ書かれける。大崎玄蕃長行イ久も福島家の士大將なり。同じ時大崎は備後鞆の城に有り。秋田下總も同じく鞆に有りしが、大崎を廣島に遣りて己一人にて鞆を守り、討死して名を揚げばやとや思ひけん、大崎に向ひ、江戶より城を受取るべき使近き內に著陣有るべし。疾く廣島に籠られ然るべからん、と云ふ。大崎聞きて、殿の下知無くて城を出でん事思も寄らず、といふ。秋田城中を廻り防戰の支度專らなりしに、大崎は柱に倚りて眠る外無し。人々大崎を誹りたるに大崎嘲笑ひ、秋田は斯く由々しく防戰の用意するなるべし。我は思ひ定めたる事有りて萬事暇なり、と言へば、其子細を問ふに、大崎此城を守り日本國を敵になし、萬に一つも勝つべきや。可惜人々を徒に殺さんも如何なり。我一人大手の門外へ出でて、城代大崎玄蕃と申す者なりとて腹切らん後、城を受取り給へ。城の人々殘らず助けられよ、と云ひて、各達の命に換るべし。何の用意の有るべき、と言ひけり。斯る所に正則の證書來り、事故なく城を渡せしかば、大崎と村上彥右衞門、眞鍋五郞右衞門と同じく紀伊の家に仕へけり。大崎は若き時木村常陸介師春に奉公し、後正則に仕ふ。鬼玄蕃と言はれし者なり。關ヶ原の時尾州淸洲の城に大崎を置かれけり。石田三成大垣の城に入りて、使を以て、福島家は太閤の恩篤き人なれば、今度無二の味方に候。淸洲を明けられよ。兵を入れなん、とぞ謀りける。津田備中繁元は實にもと思ひて、同心すべきに、長行事は如何にもせよ、殿の仰せ無くて他國の兵を城に入れん事、存じも寄り候はず。强ひて兵を寄せられば一軍せん、と目を見出して使を罵り追返しけり。斯くて大崎門々を固く守り、狹間配して斯くと小山に告げたりしかば、正則悅ばる。東照宮、正則に、淸洲の守に誰か有る、と仰せ有り。正則、大崎玄蕃を留め置きて候、と申す處に、斯と告げ來りければ聞し召し、大崎は世に譽れ有る者なり。さぞ有らん、と仰せられしが、其後も、淸洲を敵に取られざりしは大崎が功なり、と度々仰せ有りしとなり。紀州にて安藤帶刀、大崎、村上、眞鍋に逢ひて武功を問ひたりしに、眞鍋は十四の時より軍をし、數度の功名を語り、村上も十四竹子の軍より壬生川の先駈等を言ひしに、大崎は、我木村が許に小祿にて有りしが、士大將になり、又福島の家にても士を下知し候へば、左のみ鈍うも候はず、と言へば、帶刀大に感じけるとなり。又一說に、福島正則流罪藝州へ聞えければ、長臣の者共福島丹波が許に相集り、城を渡すべきや否やを論ず。村上彥右衞門通淸、殿流罪たり共、御存生に於ては御判形を見て國を引渡すべし。御判形來らずば此城を枕にして討死の外他事無し。但本丸は上月文右衞門預りたれば、上月に談合然るべし、と言ふ。上月聞きて、御判形を見ずして爭か本丸を渡すべき、と言ふ。備後三次に尾關石見、備中境東條に長尾隼人一勝、備後三原に大崎玄蕃長行有りしを、石見隼人をつぼませ、廣島、三原の兩城を守り、各人質を城に入れ天守に燒草を積み、大手搦手の持口を定めたり。安藤對馬守、永井右近大夫中國西國の軍兵を率ゐ、備中の笠岡に著陣あり。丹波吉村又右衞門、大橋茂右衞門を使として、主君の判形を見ずして城を渡すこと迷惑なり、と竹中采女へ言ひ送れり。上使聞きて、狀を取寄すべし、と返答有りて笠岡に滯留の所、正則の狀到來す。丹波已下是を見て、城を渡すべしと相定む。笠岡より尾道へ八里、初は陸路と定められしを、安藤、船にて行くべし、となり。加藤嘉明聞きて、上使は船にて早く、惣人數は陸にて遲からん。上使より遲くば我等は男を捨てなん。是非陸を、と勸めらるれども安藤聞き入れず。船の事を蜂須賀阿波守に相計らる。加藤も船を用意したり。せめて某の船に乘られよ、と勸め、此船に乘りて上使尾道に到り、人數は陸を廻りけり。大崎玄蕃使を以て、主君の狀廣島に來る上は三原も相違候まじ。然れども三原へ狀來らずして城は明渡し難し、と竹中の許に云ひ送る。安藤聞きて、後先の思慮にも及ばず無二無三に城へ乘入り、上使討死の時爰に有り。城の門際にて上使討死せば、續く者無きといふ事有るべからず。只今まで笠岡に滯留し、又爰に日數を送るべきに非ず、と云ひ切つたれば、加藤、尤然るべし、とて子息式部少輔の先陣を早押出さんとする處に、三原の城へも早や正則の狀來りければ、玄蕃事故無く城を渡したり。城に入りて見れば、士足輕の名を書き附けて狹間每に配り置き、城の隅々まで掃除して座敷には釜に湯を沸し、茶を碾かせ置きたり。翌日廣島に著きければ、丹波、今日渡すべきに城中掃除未だ終らず。下々の荷物も退け兼ねたり。明日迄待たれなんや、と言ふ。永井聞きて、我兼て聞きつる事有り、城和平になり渡すに及びて、下人の荷物を片附け兼ねたり。一兩日待たれよ、と言ひしを、荷物は札を附けて大手搦手其手より出さるべし。相當の價に買ひ取らん、とて城を受取りたりし。其翌日寄手の大將頓死しぬ。城中の謂に任せば、城を持ち返す變も計り難し。危き事なり、と云ひ傳へたり。唯一刻も早く受取らん、とて大手へ進み行きて繪圖を披き、城內の物主共を呼集め、番所寄口を渡し濟み、城へ入つて飛脚をもて此旨言上有りけるとなり。古き人の詞に、城の受取渡は互に證據を取り、唯今事に臨むが如く心得べし。城主進退窮りたるなれば愼むべきなり、と言へり。