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○石井兄弟報讐の事

卷之二十五 第1話 · 段落 3 · NDL 1078984 374コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

靑山因幡守宗俊の士に、石井宇右衞門政春といふ者あり。因幡守大坂御城代の時宇右衞門も從へり。赤堀遊閑といふ醫ありて、其從子源五右衞門を養子にしたるが、石井に緣有りて賴みたりしかば、心得たり、とて天滿の傍なる寺に置きて、常に宇右衞門が許に來り、親しくしたりしに、年經て赤堀、鎗を弟子に敎へて彼方此方せしに、源五右衞門が鎗未だ精練ならず。人に敎へんこと覺束なし、と石井言ひけるを、赤堀用ひざる止ならず、石井に立合はれよ、といふ。石井、汝が爲にこそいへ。老いたる身の立合はんも無益よ、と言へ共、赤堀怒りて止らざれば、いざ、とて立合ひけるに、手もなく石井勝ちたりしかば、赤堀口惜き事に思ひ、延寶元年十一月十八日の夜宇右衞門が出でたる隙に忍びて來り、匿れ居て掛けたる鎗を盜み出し、宇右衞門が歸るを待ちて戶の內に入らんとせしを突通す。刀を抽いて鎗をたくりけれども、十文字の橫手にかゝり深手にて倒れ死す。從者、何者ぞ、といふを、一太刀斬つて源五右衞門は逃げ去りけり。石井が嫡子三之丞は番にて有合はず。次男彥七郞は臥居たるが、出でんとすれども部屋の戶を源五右衞門掛け置きたれば、踏破りて出でけれ共源五右衞門行方知らずなりぬ。三之丞暇を申して彥七と共に靑山の家を出で、源五右衞門が行方を尋ぬれども、更に何方に有りとも聞えざりしかば、源五右衞門が父遊閑も同意にてやあらん。此者を討たば源五右衞門隱れ居らじ、とて同年の冬江州大津にて遊閑を切殺し、夫より京五條の橋、伏見の京橋、大津の町に札を建て、重恩の人を殺し逃走りたるは士の法に非ざる故、大津にて父遊閑を殺せり。汝が爲にも仇なれば逃廻らん事を止よ、首を刎ぬべし。赤堀源五右衞門へ、とて石井兄弟が姓名を記しけり。されども源五右衞門出會はねば、所々を尋ね廻れども見出さず。美濃室原村の犬飼瀨兵衞の妻は、三之丞彥七が叔母なり。是を便にして爰に有りしに、彥七は犬飼が一族に睦しからず、遂に我一人仇を討たんとて室原村を出でにけり。延寶八年の冬瀨兵衞が妻死して、其翌年正月三之丞、從者孫助を安藝へ使に遣りて、唯一人犬飼が家に有りて湯浴しける處に、源五右衞門忍び來り、其戶の側に隱れ居て一刀に三之丞に深手を負せけり。頃は天和元年正月二十八日の夜の事にて、暗さは暗し、二の太刀に三之丞が刀持ちたる右の腕を打落す。三之丞伏しながら脇差を拔いて、左の手にて赤堀が股を突き其處にて死しけり。座敷に犬飼が甥の茂七といふ者來り居たるに、赤堀飛懸りて一太刀斬つたり。犬飼聞附けて十文字の鎗を取り赤堀に突いて懸る。赤堀側なる塀に寄添ひて刀を提げ、後の塀を破らんとするを、犬飼見て鎗を取直し、後に廻らんとせし透間に飛出でて犬飼が眉間を切る。犬飼年老いたれば重手にて倒れしかば、赤堀を討漏せり。一族相集り松明を燈し、追駈くれども行方を知らず。犬飼は、赤堀が大坂にて宇右衞門を闇打にしける時、十文字の鎗にて突殺せしかば、其鎗にて突殺さんと思ひけれども、所狹くて物に障へられ討漏せり、と悔みけるとぞ。從者孫助其明る日歸りて此を聞き、齒囓して自害せんと言ひしを、樣樣に言ひ宥めけり。彥七も此由を聞き、彌怒り悶えしが、伊豫の親類の方に行くとて、海上にて風に遭ひ溺死しけり。赤堀は夫より尾張に行き、伊勢の龜山、板倉隱岐守の士靑木安右衞門は親類なれば、忍びて行きたりしに、頓て板倉に告げて祿百五十石與へて、赤堀を狙ふ者有るべしと其川心1甚だ嚴なり。他國より來る者は一夜の宿をも禁制し、見知らざる者をば城門の內に入れず。赤堀名を改めて水之助と稱す。宇右衞門が三男源藏、友時四男半藏吉政とて、兩人皆幼少にて安藝の松平安藝守の士田中左近右衞門、石井九大夫迎へとり、丹羽三大夫が許にて養育す。三大夫が妻は石井家より嫁せし故なり。我男の身ならば赤堀を搜し出し首を刎ね、此欝胸を晴すべきに、女の身年老て志を遂げざる事言ふべき詞なし。二人恙なく人と成りて、疾く父の仇を討ちて黃泉の怨を散ぜよ、と日夜に語り聞かせしかば、二人遊び戲るゝに心無く、只管に仇を討つべき志一筋なり。從者孫助は石井家の恩を請けし身なれば、赤堀龜山に在りと聞きて、樣々に身を寠し魚を賣り、或は鏡磨となりて龜山に行きけれども、宿とるべきやう無く城內に入り難ければ、時々隍際に佇みけるを人怪み、赤堀が用心彌嚴なり。天和二年源藏龜山の有樣を傳へ聞き、我旣に十五に及べり。龜山に行きて父の仇を報ゆべし。徒に遠方に有りて月日を過さん事の口惜き、とて一族樣々に押止むれども聞入れず。忍びて廣島を出づる時思ふやう、龜山の士如何ばかりか有らん。殿の仰にて赤堀に心を合すべし。天運强く父の仇は討ちたりとも、爭でか遁れ得ん。萬死の中に一生も無き身なれば、幼少より育はれし伯母は母の恩よりも深し。人に知らせずして最後の盃をせばや、とて物語の序に、近比身も壯になり、酒も嗜みて候へども、思ひ立つ志のある身は少しも飮み候事もなし。今日幸に外より來れる酒少し賜はらんや、といへば盃を出す。押戴きて覺えず淚の落ちけるを押ふる袂に祕して、遺書をば婢女に授け置き、舟に乘りて備前岡山に至り、田上某が許に暫居て、天和三年大坂に赴く。半藏は十歲なりしかば廣島にありけり。斯て源藏夫より旅人の體をして龜山に行き、又京に歸りて、或は關坂の下に赴きて、二年が間龜山に入るべき謀をたくみけれども、中々思ひも寄らざりしかば江戶に赴き、隱岐守の屋敷の下部に奉公せんとすれども、此も屋敷の法嚴にて力及ばず。又龜山に行き、又常州、上總、下總までも其便を求めて奔走す。其艱難誠にいふに詞も無かるべし。兎角して廣島を出でて七年過しぬ。始は甚だ行路に行惱みけるが、天の護にや有りけん、程經て後は寒暑をも能堪へ、雨露に立濡れ風氣に冒さるれども、藥をも服せず、其身愈健なり。或は野山に打伏し或は飢渴に及べども、志したる一事は膽を大にして尠ともひるまず。半藏は、今暫し成長して、と一族押止むるをも顧みず。元祿元年廣島を出でて兄と一所になり、龜山に入らん謀をなす。斯て板倉隱岐守卒去有りてければ、江戶の屋敷より取入らん手立せん、とて半藏江戶に赴き、日傭となりて屋敷に時々行きけれども、其便を得ず。
  1. 誤植 — 底本「川」。「用」の誤植か(「用」の横画欠け)。
從者孫助は年老病重かりしかば、藝州に行け、と言へ共、何の面目有りてか仇を討得ずして廣島に歸るべき、といふ。源藏、汝辛苦に病附きたり。未だ敵討つべき時の至らぬにや、斯迄心を盡せ共、其甲斐無きこそ口惜けれ。されども親族達の見つぎ給はるも一日の飯料米一升ぞかし。價にすれば僅に一日四分にや當るべき。日々馳廻り、口に食し肌を蔽はんとするに足らざるは言ふにや及ぶ、草履の價も其中よりこそ出せ。又手よりを求むるにも費無きにあらず。斯る艱難の有樣も細やかに安藝の一族に語り聞かせよ、とかき口說き語りければ廣島に行きぬ。下部の身として、年久しく命を塵芥より輕くして附纏ひたる志を勞りけるが、終に病重くて、元祿十年廣島にて死しけるとぞ。
源藏江戶に赴きて、半藏が手段に心を合せ又上方に歸り、兄弟往還誠に織るが如し。或時は僅の商人となり、又或は近江の茶賣となり、或は伊賀の山家の者と僞り、詞使身の振舞、夫々に似習はんと心掛けたりけり。斯て元祿九年、半藏、板倉の士平井才右衞門が許に下部となりて奉公する便を得て、龜山に平井歸りしかば、半藏も供して龜山に入る事を得たり。源藏は上方に赴き伊勢に行通ひて、人目を忍び半藏に逢ひて、仇の有樣を傳へ聞く。平井病みて死す。平井と赤堀と親み有れば、其弔に來る道にて討たんと計りしに、如何にか有りけん、赤堀來らで其手段も空しく成りぬ。其明の春半藏に暇を遣りしかば、又龜山の辻四郞兵衞が許に奉公す。辻江戶に赴く。半藏、江戶に供せんは志にあらず、と言へ共、龜山に居らんには所の人請人に賴むべき人無ければ、辻が供して又江戶に赴く。源藏目を病みて久しく療養に日を過せしうちに、半藏江戶より又龜山に歸り、忍びて出逢ひて仇を窺へ共便を得ず。半藏又江戶に赴きしかば、源藏も又江戶に行きて、町奉行川口攝津守の許に參りて仇討つべき願の書を出す。是元祿十一年十一月十六日なり。半藏は何とて來らざるや、と問はるゝに、弟は所々志し候所を立巡り候中に、煩ひ出し候旨を申す。仇討たんと志し候は年久しく成りぬ。如何に今迄は申出でざるや、と問はるゝに、源藏聞きて、兄弟とも幼少にて敵の有家を存ぜず。近頃承り出したる事の候て申出でたるにて候。又承り出さざる前に申出んには、外へ泄聞えて仇の彌匿れ候ひなん事を恐れての事に候、といへば、尤なり、とて帳に記して、さて攝津守聞屆けられぬ。江戶御城の下馬の下にても見附けたらば討止めよ、と許されしかば、辱き由一禮して、又松前伊豆守の許に至りてければ、攝津守より言送られし故帳に記して、疾く首尾よく仇討たれ候へ、と色代す。其より源藏は龜山に歸り奉公せんと便りを求めけれども、假令金銀を惜まず賄賂すとも、他國より來る人の奉公すべき請に立つべき人は思ひも寄らず。況や一金の貯へなければ、源藏も如何とも爲べきやうなし。元祿十三年源藏又江戶に赴きける處に、周防守の許に夏目八兵衞といふ者あり、元上總の人なり、下部を召置かんとせしかば、半藏便有りて夏目に告げて、駿河の者にて候が、伊勢の大神宮に參りたき志あり。給金は給はらでも奉公せん、と謀りければ、夏目、さらば、とて源藏を下部にしたりけり。半藏此時は下村一學といふ者に奉公し、兄弟共に龜山に赴く。是より兄弟日夜に隱れ忍びて心を合せ仇を伺ひけるが、其後に石黑仁右衞門が下部に、至つて實儀なる者あり。源藏が心眞實なるを見て甚だ心安かりしかば、請人を賴みて事よくなりぬ。斯て鈴木柴右衞門といふ者に奉公しければ、夏目、此人は勝れたる者なり、と詞を添へたり。半藏も下村に仕ふる事並々ならねば、主人勞る事大方ならず。其父に祿增されしかば、半藏を若黨にして、刀に衣服を添へて與へたり。兄弟今は龜山に在りて時を待つ處に、赤堀が當番の歸路を討つべしと定めて、元祿十四年五月にも成りぬ。八日は赤堀が番なれば、午の刻に代りて歸る處を討たんとせしに、疾く歸りて志を空しくす。さらば其明くる朝の歸路を、とて各川意2したり。源藏は殊に下部の爲べき事多く、更に暇無し。宵に少の間暇を乞得て町に出で、夫より龜山の八幡宮は道の邊なれば、立寄りて心靜に著込を著、神前に向ひ、今日必ず父の仇討たせ給へ、と伏拜み、宮を出づれば夜は明けたりしかば二の丸に行き、空眠のみして半藏を待居たり。半藏は出んとせし時主人の川有り3て遲く成りたる處に、友達の來りければ、著込著る間も無く、主人より貰ひたる刀は懸け置き、隱し置きたる刀を取り、飛出でて二の丸に行けば、兄は半藏を遲しと待居たるに、來りければ心の內に勇みけり。斯て赤堀其日は唯一人廣間より出でて歸りしかば、兄弟打連れて二の丸の外なる石坂門を打過ぎける時、赤堀が後より駈拔けて前に立塞り、石井宇右衞門が子源藏、半藏なり、と詞をかけ、源藏拔討に赤堀が眉間を切る。赤堀我刀の柄にて受止めたれ共、二の太刀透さず切附けたる處に、半藏駈來り赤堀が頭に深々と切附け、倒るゝ處を疊みかけて切りたりしかば、立も上らず死したりけり。源藏乘懸り刺貫きて止を刺し、從者をば追拂ひつ。兄弟は、初赤堀が父を打ちたりしより仇を報ゆる次第記置きたるを、常に各一通帶の中へ入れたりしを取出し、赤堀が袴に挾みけり。所は長臣板倉杢右衞門が宅の邊なり。我も我もと馳集るべし。年頃日頃思ひ暮せし赤堀をば討止めたり、今は世に心に懸る事なし。刀の目釘の續かん程切合ひて屍の山をなし、年久しく赤堀を警固せられし恨を晴さん、と兄弟言交し、追ひくる人を待てども更に來る人なし。半藏其時、爰にて切死せんより城外に出て追手を待ち死狂せん。さらば京都にも聞え旅人の往來に聞えて、安藝の一族達にも兄弟本意を遂げし事を知るべきなれば、城門を謀りて遁れん、と言ふより早く半藏先に立ち駈出るを、源藏後より詞をかけ、汝が用の事急ぐと主人の言はれしぞ。疾く急がれよ、といひ〱打連て城門を出づれば、番人も聞咎めず。黑門を遁れ出でて京口に至り、龜山の西のんこの茶屋に至りけれ共、追來る人無ければ、さては遁れ得ん事も難からじ。されども馬に乘りて追來らんに、兄弟走りて息切れたらんには、思ふ程切合はれじ、と靜に關川を涉り、山に登りて見渡せども追來る人無ければ、龜山の西南一里半許行きて小家に立寄り、草鞋を買求め、津の城に行く者なり、とて道を問ひ、童を案內者にして、十町餘りも過ぎて椋本の松原見えしかば、童を返し、又道を引違へて北なる野に懸りて、食物を認めて、行く〱小川を渡りしかば、口嗽ぎて太神宮に向ひて、幼少より思ひ入つたる仇を擊ちたる事の忝さよ。廣島を出でしより存命ふべしとは努々存も寄らざるに、爰まで遁れ出たるは神の護、と伏拜み、伊賀の上野に出で、夫より山城の笠置の道を問ひ、伏見に赴き京に至り、諸國の一族の許に龜山にて仇打つたる由書記し言送り、岐會路より江戶に赴き、五月二十六日、町奉行保田越前守の許に行きて仇討ちたる由を申せば、尋問はるゝ事ども有りて越前守自出て、兄弟に始終詳に聞き勞らるゝ事大方ならず。饗膳給はりて夫より松前伊豆守の許に至りしに、過ぎにし年逢ひたりし人々出て悅び合へり。靑山の藝州の屋敷に行きて石井淸大夫が許にあり。靑山下野守の嫡子筑後守此由を聞き、卽ち使を以て兄弟を引取られけり。其後下野守の領地其比濱松なりしかば遠州に至り、兄弟共に寵せられ、源藏後重き職を命ぜられけり。
  1. 誤植 — 底本「川」。「用」の誤植か(「用」の横画欠け)。
  2. 誤植 — 底本「川」。「用」の誤植か(「用」の横画欠け)。