靑山因幡守宗俊の士に、石井宇右衞門政春といふ者あり。因幡守大坂御城代の時宇右衞門も從へり。赤堀遊閑といふ醫ありて、其從子源五右衞門を養子にしたるが、石井に緣有りて賴みたりしかば、心得たり、とて天滿の傍なる寺に置きて、常に宇右衞門が許に來り、親しくしたりしに、年經て赤堀、鎗を弟子に敎へて彼方此方せしに、源五右衞門が鎗未だ精練ならず。人に敎へんこと覺束なし、と石井言ひけるを、赤堀用ひざる止ならず、石井に立合はれよ、といふ。石井、汝が爲にこそいへ。老いたる身の立合はんも無益よ、と言へ共、赤堀怒りて止らざれば、いざ、とて立合ひけるに、手もなく石井勝ちたりしかば、赤堀口惜き事に思ひ、延寶元年十一月十八日の夜宇右衞門が出でたる隙に忍びて來り、匿れ居て掛けたる鎗を盜み出し、宇右衞門が歸るを待ちて戶の內に入らんとせしを突通す。刀を抽いて鎗をたくりけれども、十文字の橫手にかゝり深手にて倒れ死す。從者、何者ぞ、といふを、一太刀斬つて源五右衞門は逃げ去りけり。石井が嫡子三之丞は番にて有合はず。次男彥七郞は臥居たるが、出でんとすれども部屋の戶を源五右衞門掛け置きたれば、踏破りて出でけれ共源五右衞門行方知らずなりぬ。三之丞暇を申して彥七と共に靑山の家を出で、源五右衞門が行方を尋ぬれども、更に何方に有りとも聞えざりしかば、源五右衞門が父遊閑も同意にてやあらん。此者を討たば源五右衞門隱れ居らじ、とて同年の冬江州大津にて遊閑を切殺し、夫より京五條の橋、伏見の京橋、大津の町に札を建て、重恩の人を殺し逃走りたるは士の法に非ざる故、大津にて父遊閑を殺せり。汝が爲にも仇なれば逃廻らん事を止よ、首を刎ぬべし。赤堀源五右衞門へ、とて石井兄弟が姓名を記しけり。されども源五右衞門出會はねば、所々を尋ね廻れども見出さず。美濃室原村の犬飼瀨兵衞の妻は、三之丞彥七が叔母なり。是を便にして爰に有りしに、彥七は犬飼が一族に睦しからず、遂に我一人仇を討たんとて室原村を出でにけり。延寶八年の冬瀨兵衞が妻死して、其翌年正月三之丞、從者孫助を安藝へ使に遣りて、唯一人犬飼が家に有りて湯浴しける處に、源五右衞門忍び來り、其戶の側に隱れ居て一刀に三之丞に深手を負せけり。頃は天和元年正月二十八日の夜の事にて、暗さは暗し、二の太刀に三之丞が刀持ちたる右の腕を打落す。三之丞伏しながら脇差を拔いて、左の手にて赤堀が股を突き其處にて死しけり。座敷に犬飼が甥の茂七といふ者來り居たるに、赤堀飛懸りて一太刀斬つたり。犬飼聞附けて十文字の鎗を取り赤堀に突いて懸る。赤堀側なる塀に寄添ひて刀を提げ、後の塀を破らんとするを、犬飼見て鎗を取直し、後に廻らんとせし透間に飛出でて犬飼が眉間を切る。犬飼年老いたれば重手にて倒れしかば、赤堀を討漏せり。一族相集り松明を燈し、追駈くれども行方を知らず。犬飼は、赤堀が大坂にて宇右衞門を闇打にしける時、十文字の鎗にて突殺せしかば、其鎗にて突殺さんと思ひけれども、所狹くて物に障へられ討漏せり、と悔みけるとぞ。從者孫助其明る日歸りて此を聞き、齒囓して自害せんと言ひしを、樣樣に言ひ宥めけり。彥七も此由を聞き、彌怒り悶えしが、伊豫の親類の方に行くとて、海上にて風に遭ひ溺死しけり。赤堀は夫より尾張に行き、伊勢の龜山、板倉隱岐守の士靑木安右衞門は親類なれば、忍びて行きたりしに、頓て板倉に告げて祿百五十石與へて、赤堀を狙ふ者有るべしと其川心1甚だ嚴なり。他國より來る者は一夜の宿をも禁制し、見知らざる者をば城門の內に入れず。赤堀名を改めて水之助と稱す。宇右衞門が三男源藏、友時四男半藏吉政とて、兩人皆幼少にて安藝の松平安藝守の士田中左近右衞門、石井九大夫迎へとり、丹羽三大夫が許にて養育す。三大夫が妻は石井家より嫁せし故なり。我男の身ならば赤堀を搜し出し首を刎ね、此欝胸を晴すべきに、女の身年老て志を遂げざる事言ふべき詞なし。二人恙なく人と成りて、疾く父の仇を討ちて黃泉の怨を散ぜよ、と日夜に語り聞かせしかば、二人遊び戲るゝに心無く、只管に仇を討つべき志一筋なり。從者孫助は石井家の恩を請けし身なれば、赤堀龜山に在りと聞きて、樣々に身を寠し魚を賣り、或は鏡磨となりて龜山に行きけれども、宿とるべきやう無く城內に入り難ければ、時々隍際に佇みけるを人怪み、赤堀が用心彌嚴なり。天和二年源藏龜山の有樣を傳へ聞き、我旣に十五に及べり。龜山に行きて父の仇を報ゆべし。徒に遠方に有りて月日を過さん事の口惜き、とて一族樣々に押止むれども聞入れず。忍びて廣島を出づる時思ふやう、龜山の士如何ばかりか有らん。殿の仰にて赤堀に心を合すべし。天運强く父の仇は討ちたりとも、爭でか遁れ得ん。萬死の中に一生も無き身なれば、幼少より育はれし伯母は母の恩よりも深し。人に知らせずして最後の盃をせばや、とて物語の序に、近比身も壯になり、酒も嗜みて候へども、思ひ立つ志のある身は少しも飮み候事もなし。今日幸に外より來れる酒少し賜はらんや、といへば盃を出す。押戴きて覺えず淚の落ちけるを押ふる袂に祕して、遺書をば婢女に授け置き、舟に乘りて備前岡山に至り、田上某が許に暫居て、天和三年大坂に赴く。半藏は十歲なりしかば廣島にありけり。斯て源藏夫より旅人の體をして龜山に行き、又京に歸りて、或は關坂の下に赴きて、二年が間龜山に入るべき謀をたくみけれども、中々思ひも寄らざりしかば江戶に赴き、隱岐守の屋敷の下部に奉公せんとすれども、此も屋敷の法嚴にて力及ばず。又龜山に行き、又常州、上總、下總までも其便を求めて奔走す。其艱難誠にいふに詞も無かるべし。兎角して廣島を出でて七年過しぬ。始は甚だ行路に行惱みけるが、天の護にや有りけん、程經て後は寒暑をも能堪へ、雨露に立濡れ風氣に冒さるれども、藥をも服せず、其身愈健なり。或は野山に打伏し或は飢渴に及べども、志したる一事は膽を大にして尠ともひるまず。半藏は、今暫し成長して、と一族押止むるをも顧みず。元祿元年廣島を出でて兄と一所になり、龜山に入らん謀をなす。斯て板倉隱岐守卒去有りてければ、江戶の屋敷より取入らん手立せん、とて半藏江戶に赴き、日傭となりて屋敷に時々行きけれども、其便を得ず。
- 誤植其川心 — 底本「川」。「用」の誤植か(「用」の横画欠け)。