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酒井

第四上 · 단락 12 · 780520 45코마 L부터

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인물 90 45 22 19 18 17 11 7 6 6 5 5 4 4 4 4 3 3 3 3 3 3 3 3

지명 10 9 6 5 5 4 4 4 4 4 4 4 3 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2

其家の系圖傳ふる所、かくの如し、先祖の事詳ならず、世に傳る所、異說まち〱なり、事長ければ、下に註す、○德川殿の御先祖源親氏と申奉る、初て三河國に至り玉ひ、坂井といふ所に留り、嘉吉元年十二月、御子一人設けらる坂井五郞親淸といふ、此後松平に移り、泰親を設け玉ふ、これ德川殿の御先祖なり、坂井五郞親淸男子二人、兄は小五郞親忠、弟は與四郞親重といふ、文明十一年七月十五日、泰親の御子信光、安祥を攻められし時、坂井五郞親淸三十九才、小五郞親忠二十才、與四郞親重十八才、父子三人御方に馳參り、搦手に向ひ、城を攻おとす、小五郞後に信光の御子親忠と申奉れば、おのが名乘を改て、坂井左衞門尉氏忠といひ、入道して、淨賢と號す、是も男子二人、兄は將監忠尙、弟は左衞門尉忠次といひしなり、與四郞親重は、雅樂助正親の父なりと云云、此說詳なるに似たり、されども、雅樂助正親の系圖に合せ考ふるに、大に異なり、彼系圖をあはせ見るべし、並合記に曰く、酒井與四郞忠則、三河國成瀨に住す、後に大濱の下宮に蟄居す、三河松平の酒井是れなり、成瀨七郞忠房、太郞左衞門忠親、二人は、正行寺に居す、この三人は兄弟にて、新田の一族大館又太郞宗氏が子なり、紋かたばみと云云、此說殊に珍らし此說の如くなれば、同し流の源氏なれど、德川家の庶流にはあらざるなり、
世に傳ふる所に曰く、初め廣忠卿十一歲にて、駿河にまします時、天文五年四月八日、酒井左衞門卒す、其子を將監と申て、父に繼く、永祿六年德川殿、織田信長に組みし玉ひし時、將監二心ある由なれば、討手を差向られしに、打もらしつ、一向宗の亂の時、將監上野城にこもり、明れば永祿七年に城逃れ出て、駿河に落行く、其所領を甥の小五郞忠次に下さると云云、又岩淵夜話別集に曰く、今川義元、織田殿に討れ玉ひし後、酒井將監を召して、今川氏眞、年頃父の讎むくはんといふ志もなく、家人多けれども、諫むるもの一人もなし、元康たま〱此事を勸むれば、用ゐざるのみにあらず、却て恨みをふくむ、今川の家亡ふべき時、既に至りぬ、この上は力なし、元康は駿河に置きし人質、捨てなんと思ひたつ汝が人質をもすゑ〱は捨てんと心得よと仰ありしに、將監は、今川と中違ひし玉はん事、然る可らざる由を諫めて、御前を立しに、德川殿、彼が氣色二心ありと覺ゆるぞと、速に兵をおこして追かけ玉へば、おのが上野の城に入る事を得ず、直に駿河へ落行、將監が所領をば、彼甥小五郞に賜て、左衞門尉とめさると云云、按ずるに前の說によれば、左衞門尉忠次に所領賜ひしは、永祿七年の事なり、後の說によれば、永祿四年の事なり、創業記考異にも、一向宗亂の下に、此度酒井將監、上野の城に立こもり、將監は昔しも御敵なりしが、此度も又一揆に組みしけると載せ玉へり、又一向宗亂の時、左衞門尉忠次、一方の大將たれば、岩淵夜話別集の說の如くに、永祿四年に忠次に所領賜りし事、疑ふべからず○家忠日記增補を考ふるに、酒井將監天文十六年織田彈正忠に組して、廣忠卿に背き、永祿六年一向宗亂の時、又德川殿に背くとしるす、誤れるにや、大久保彥左衞門物語に、廣忠卿の御時の事しるして曰く、坂井左衞門尉殿は、織田彈正と心を合せて、御城へ詰て、石川安藝守と酒井雅樂助に腹を切らせ玉ふべしと訴ふ、左衞門逆心して御城に詰たりと聞て、各馳せ參れば、左衞門尉引退き、譜代の衆五三人引ぐして、織田彈正忠へ出ると、云云、是天文十六年の事なり、又一向宗亂の事を記して曰く、上野には酒井將監殿逆心なり、其後將監殿上野を明て、駿河へ落ち行き玉ふ、おとなにて上樣か將監殿かといふ程の威勢なれども、御主に勝つ事ならずして、夫より將監殿の筋は絕て、跡方もなしと、云云、是永祿七年の事なり、大久保が記は眼のあたり見もし聞もしたる事しるしたれば、大に謬るべからず、都て諸說を合せ按ずるに、忠次の父、定かならざるに似たり、其家の系圖には、左衞門入道淨賢が子と見えたり、世に傳ふる所は、左衞門入道淨賢が子の將監忠尙が甥といふ、其家の系圖を見れば、左衞門入道淨賢、天文五年に卒すとなり、此時七十七歲なるべし、入道が卒する時は、忠次年わづかに十三才にや、然れば入道六十五才のとき設けし子なり、覺束なし、大久保が記によれば、天文十三年に廣忠卿1に背き參らせて、尾張へ行し左衞門尉といふ者あり、これ入道にあらず、また忠次にあらず、思ふに此左衛門尉といふは、淨賢が子にて、將監忠尙が兄弟、則ち忠次が父なるべし、さらんには、忠次實は淨賢入道が孫にして、將監忠尙が爲には甥なり、世に傳ふる所の說にあふにや、其家の系圖に、忠次を淨賢が子としるしゝ事は祖父が家を繼がせ玉ひしに依りてなるべし、其父左衞門尉は反逆の人なれば、系圖には載せざると見えき、
  1. — 지면 그대로. 같은 단락 앞(780520_0047R 3열)에서는 大久保 기록의 이 일을 「天文十六年の事」라 하고 여기서는 「天文十三年」이라 해 본서 안에서 어긋난다. 어느 쪽이 맞는지 미확인
忠次譜代重職の家を繼き、又岡崎贈大納言家の御妹君にそひ參らせ、德川殿の御伯母聟なりければ、忠次の室は、初め長澤の松平上野介政忠に嫁し、源七郞康高を設けらる、政忠桶狹間の戰に討れ玉ひし後、忠次に嫁し玉ひしなり、當家に於て肩を並ぶる人なし、永祿六年の秋より、一向專修の門徒等、盡く背き參らせし時、忠次が向ふ所敗れずといふ事なし、戶田三郞右衛門忠次が傳を合せ考へし、七年六月今川の侍大將小原肥前守、吉田の城にあり、忠次先陣を承て攻む、小原防きかねて、忠次に依て御一族一人を賜て、駿河國に御供仕り候はんには、城をば開き渡し奉るべきにて候と望む、さらば松平源三郞殿、駿河へ趣き玉ふべきに定りければ、忠次が娘をも副て、小原にわたす、小原駿河に歸りぬれば、三河國盡く德川殿に從ひぬ、同き月廿二日、城をば忠次に賜りけり、忠次に吉田の城を給りて、東三河の衆を其手に屬せらるゝといふ、源三郞殿は、久松の男、德川殿異父同母の御弟、此後武田が今川を亡ぼせし時、おのが國に取參らせてゆく、頓て歸り給ひしなり、此後忠次、此ほとりの人々の簇頭して、所々の合戰に先陣し、一度も不覺の名をとらず、忠次の戰功數ふるに暇なし、たゞその大畧をしるすのみ。中にも元龜元年九月、去る六月近江國姉川の合戰の後、織田殿また加勢の事を仰ければ、此度は忠次石川日向守家成と共に、宗徒の人々引具して向ふ、其勢僅かに二千人には過きず、近江の勢多にて、織田殿に參り合ふ、信長悅ひ玉ふ事斜ならず、越前の敵をば、信長防き戰ひなん、當國佐々木が軍勢には、人々向て軍せよと宣へば、勢多と草津との間にぞ、陣取たる、同き廿五日佐々木が多勢と戰ふ事、一日の間に廿餘箇度、敵盡く利を失て、越前の兵、氣おくれして、信長に中直りし、本國にこそ歸りけれ、同き二年四月、武田大膳大夫入道信玄、二萬三千人を引具し、參河國へ發向す、德川殿敵二連木の城を攻ると聞召し、御勢纔に五千人後卷せんとて出玉ふに、城は落ちぬと聞えしかば、吉田の城に入玉ふ、武田もこゝに押寄〱、山に陣を取る、まづ子息の四郞勝賴、山縣三郞兵衞尉昌景、都合其勢八千五百、城の邊に攻め近付く、左衞門尉忠次城中より切て出、敵の多勢を追拂ひ、明る日又先駈して、吉田の宿のあなたにて、一日が其間に、三度まてこそ戰ふたれ、此日忠次自ら廣瀬郷左衛門と戰ふ事二度に及ふ武田入道、德川殿此城に、ましますと見てければ、容易には陷されじと、玆より山路を歷て、本國へぞ歸りける、同三年十二月三方が原の合戰に、武田が侍大將小山田備中守が陣を討破る、天正元年二月、忠次鳳來寺の城を攻落す、六笠一宮の城々、怺へずして皆降人に成て出づ、同二年九月武田四郞勝賴、濱松の城を攻めんとて、二萬餘騎を從へて、天天龍1を打渡り、御方は僅か七千人にて、天龍に打臨み、既に御勢を進めらる、忠次頻りに諫めければ、御方進みて戰に及はず、敵も頓て引返す、同き十月勝賴、又鳳來寺に要害を搆へ、軍勢を込む、十二月二日忠次かしこに押よせて、城中の兵と戰て、首餘多切て獻る、同き三年九月2武田四郞、長篠の城を落さんと、遠江國を經て、三河國に打出づ、德川殿御父子、後卷あるべしとて、三郞殿山中に陣を取り玉へば、德川殿吉田の城に入り玉ふ、左衞門尉忠次城を出て、生薑原の邊りにて、山縣が勢と戰ひたり、頓て織田殿加勢有て、同き廿日、御方の軍勢都合十萬餘騎、有海が原に出向ふ、勝賴武田兵庫介信實を先として、宗徒の侍大將七人、長篠の城の上、鳶巢の要害に籠む、小山田等が勢を引分て城を攻め、我身は一萬五千餘騎、瀧澤川を渡て陣を取る、忠次德川殿に向て、忠次參河の人々引具し、此所より遙かに南へ廻て、山路を傳ひ、鳶巢に至り、かの要害を攻落して候はんには、明日の合戰、御方一定勝ちぬべう候と申す、さらば信長に參り此由を謀れと仰ければ、忠次織田殿に、斯と申す、信長大に感し給ひ、足輕の兵に、鐵炮五百挺を副られたり、
  1. — 지면에도 「天」이 두 번 찍혀 있음(저본 衍字로 보임). 본문은 지면 그대로
  2. — 지면 그대로. 武田勝頼의 長篠城 공격과 設楽原 결전은 天正3年 5月(결전 5月 21日)이라 「九月」과 어긋난다
一說には、忠次此由を申けるに、信長大に怒て、此謀事然るべからずと、のたまひし程に、忠次面目を失て、其坐をたつ、信長窃かに近づけて、誠に汝の謀事ゆゝしけれど、若し敵に漏れ聞えんずらんと思へば、今のやうには云ひたり、はや打立とありしかば、忠次さらば御使を給へ、忠次が軍する樣を見せ玉ふべしと望みしかば、金森五郞八等の足輕大將を添へられたりと云云、又一說に、忠次が此謀を述べしは、德川殿御父子織田殿御父子參會ありて、軍評定ありし時の事なり、御使に參りしには、あらずともいふなり
忠次急きおのが陣にかへり、宗徒の人々相隨へ、都合其勢三千餘騎、奧平美作守貞能に案內させ、この說奧平家の事書に見えたり、一說、奧平監物名藏喜八と云云、夜もすがら大雨を凌き、難所を越え、しのゝめやう〱あくる頃、敵の陣に押寄せ、後の陣より火を放ち、時を作て切て入、おめき叫ひて攻めし程に、兵庫頭信實を初とし、宗徒の大將多く討る、奧平九八郞信昌も、同しく時を合せつゝ、城中より切て出づ、小山田室賀相木が勢、おのが陣所に火を掛て、煙の紛れに落行を追詰〱、討つ所に、小山田が五百餘人、取て返へして戰ふ、松平主殿助伊忠討れけれど、鳶巢既に攻おとされ、長篠の寄手、負軍すと聞えしかば、四郞が軍、うしろあらはになり行て、終には敗て落て行く、軍既に畢て後、織田殿、忠次を召れ、薙刀を賜て、今日の功をぞ賞せらる、此薙刀をば、忠次後に德川殿に奉りしなり、今年六月二俣の城の先陣し、同八月諏訪の原の城、終におちぬ、遠江にあり、今年六月より攻られしなり、又小山の城攻むべしと議せらる、忠次諫め參らせて、武田が城既に落ちぬ、此後所々皆かくこそあるべけれ、まづ此度は御勢を返さるべうもや候と申す、德川殿用ゐ玉はず、忠次重ねて、故信玄入道、弓矢を取て、當代に類ひ多からず、されば其子息なれば、四郞頓てうしろ卷し候ひなん、長篠より此かた打續きたる戰ひに、御勢既に疲れぬ、戰はんこと謀にあらずと申す、松井左近忠次後に松平周防守康親進み出て、小山の城せめられんに、何條の事か有べき、四郞が後卷叶ふ可らず、今年長篠の合戰に、能きもの餘多うたせつ、今は越後の敵に、信濃の國、取られじとこそ謀るべけれ、是より後、五三年がほど此方に向ひ軍せん事、思ひもよらずと申す、此上は忠次强て諫申に及はず、小山の城をせめらる、四郞勝賴是を聞て、甲斐信濃上野の軍勢、生殘りたる者共に、長篠にて討れたる兵の、或は子或は弟などの僧となり商となりし者を、盡くかり催し、都合其勢二萬餘をひきゐて、小山の城の後卷す、御方の人々、左衞門尉が云ひし如く、武田また打出たりとて、引返さんとする所に、城中よりも切て出、忠次士卒を下知し、取て返し、みづから眞先に進み、左衞門尉忠次我なりと名乘かけ〱、敵の勢をうち破る、武田が方にも高坂彈正忠、主人を强て諫めければ、戰ひに及ばず、同き四年二月七日上杉管領輝虎より忠次に書をぞ給りける、是れ德川殿と相謀て、武田を亡さんとの事なりけり、夏目が記を考るに、元龜三年の秋、德川殿より遠州秋葉山の先達加納坊といふ山伏に、熊谷小次郞を添て、御使とし、樽肴に、唐の頭十、並に濱松の城の木圖を謙信の許に送り遣はさる、此木圖近き比迄、上杉の家にあり、又石川伯耆守植村出羽守か許よりも、河田直江に書を贈れりと記す、然れは今年初て上杉と好み結ばれしにあらず、同六年武田北條黃瀨川に對陣せし時、其隙に乘して、駿河國に入玉はんと、議せられしに、忠次申旨あつて、御軍をとゝめらる、同き八年九月駿河國田中の城をせめ、十月高天神城おちし1とき、首四十二切て獻る、同き十年武田亡ひし時、先陣打て甲斐に入り、織田殿、駿河遠江三河を經て、本國に歸り玉ふべしと聞えしかば、德川殿まづ忠次返して、御設けの事、沙汰せらる、四月十二日織田殿濱松に至り、忠次に向ひ、此度武田を討し事、是れ併しながら、德川殿の武功による所なりと宣ひて、夜いたく更くるまで、忠次と物語し、數盃の興をぞ添られける、同き十八日、吉田の城に着玉ひ、元より此所は、おのが守る所なれば、忠次みづから御設けす、貞光の太刀に黃金貳百兩添て引れたり、今年五月德川殿安土へ御參ありしに、忠次御供に候ひけり、織田殿みづから配膳せらる、六月二日織田殿父子失はれ玉ふ時、德川殿和泉の國堺の浦より、本國へ返へらせ給ふ、道の程、忠次等供奉して、岡崎に至り玉ひ、光秀追討あるべしとて軍勢もよほして發向あり、忠次先陣承り、尾張の國に打入、光秀既に討ると聞えければ、此所より引返し、甲斐の國に向ひ玉ふ、忠次また先陣す、七月十四日忠次信濃國十二郡の事、知行すべき由を承る、東三河の軍勢を引ぐして向ふ、國人等あへて忠次が命に從はず、かゝる所に、北條左京大夫氏直、武田が領せし國々從へんと、數萬騎を引卒して、打て入ると聞えしかば、忠次信濃國を去て、甲斐國に引返し、九月十日、忠次一勢、自餘の勢をまじへず、北條の勢を打破る、かくて諸方の戰ひ、敵みな利を失ひ、氏直美濃守氏規を北條使者として、德川殿に中直りし、大道寺山角等を質とせらる、御方よりは忠次が嫡男小五郞家次をこそ出されたれ、程なく德川殿の姫君、氏直の北の方に定まらせ玉ひしかば、互の人質を返されて、明る十一年姫君相摸國に入せ玉ひ、忠次おくり參らせけり、十二年の春の比、筑前守秀吉、北畠殿に背きて尾張國へ發向すと聞えければ、德川殿信雄をたすけて、尾張國に至り玉ふ、池田紀伊守入道信輝が一族、秀吉に組して、美濃國大柿の城を立て、まづ犬山の城を落し、犬山に陣を取る、入道が聟森武藏守長一、羽黑に陣をぞ取たりける、忠次、落合の御陣に參り、長一、年來鬼武藏と名を呼れ、おのが武勇を恃みにして、近く羽黑に陣をとる、忠次打破て、京家の輩に、我が國の軍の樣を見せ候はゞやと申て、東參河の人々を引ぐして、まづ樂田羽黑五郞丸の在々所々、夥しう燒たてゝ、武藏守が陣に押寄す、長一八幡の森を打出て、流るゝ水を前になし、兵共下知し、皆おり敷てぞ待かけたる、御方頓ておし寄て、矢一つ射ちがふる程こそあれ、水をさつと渡して、おめいて懸る、敵しばしは支へ戰ひしが、さん〱に駈け破られ、犬山さして逃け行くを、追詰〱討取て、犬山に扣へたる、池田が陣に打向ひ、時をどつと作りかけ、靜かに引てぞ歸りける、かゝる所に、秀吉拾萬餘騎を隨へて、既に美濃國に打入と聞えしかば、御方いづくに陣取てか戰ふと評定あり、小牧の山よかるべしとて、忠次して見せらる、此山誠によかんぬと申ければ、頓て御陣を移されたり、かくて四月九日、長湫の合戰の日、忠次を先として、宗徒の人々あまた小牧山に留めらる、御方勝軍せしと聞えし程に、秀吉の多勢、樂田を立て、長湫の方に馳せ向ふ事引きも切らず、忠次人々に向て、戰ひ勞れたらん御方の、此あら手の多勢と、軍せんこと、大事なり、いざ我々留守の料に、敵の陣々打破て燒立て、秀吉其烟を見たらんには、我陣また破られぬと驚き、はか〲しき軍、よもせじ、一定御方又勝軍せんと覺ゆるは、如何にと云ひければ、人々此義尤とて、一同に打出んとす、石川伯耆守數正、いや〱此定しかるべからず、我身は此所能く守れとこそ承れとて、長僉義に時を移す、忠次大に怒て、互に相論に及び、事ゆくべしとも見えず、本多平八郞忠勝、さらば尾幡に馳向ひ、御先を懸けんとて打て出づ、石川長門守康通も同じく續きて出たりけり、多からぬ御方、次第に無勢になり、人々又數正が心を疑ひし程に、忠次空しく兵を止む、數正此ほどより、秀吉に志を通せしにやといひしなり、德川殿既に小牧に引かへし玉へば、此日の軍は、さて止みぬ、明れば十日、秀吉樂田に取て返へし、小松寺山に陣を取る、凡そ敵勢のいくらといふ數を知らず、西は日保曼陀羅寺、東は二重堀の要害より、小松寺山に打續き、北は靑塚尾口樂田に至るまで、雲霞の如くみち〱て、七が所に陣を分ちたり、御方纔に壹萬八千人、十六手に作りて、忠次直政井伊を先陣とし、二重堀に扣たる、敵の陣前を經て、東野へ打て出、水を隔てゝ陣を張る、敵出て戰はねば御方も進みて戰はず、日旣に午の刻斗りに成て、御方一勢〱引て返へる、敵敢て慕ふにも及ばず、此日二重堀の要害に扣へたる、秀吉の大將、細川蒲生堀長谷川、都合其勢壹萬餘騎、秀吉の陣に使を立て、敵間近く打出たり、われ〱打出て戰ふべし、御勢を加へらるべしといふ、秀吉制して、敵馬を馳せ來らば、御方は陣を堅うして禦げ、御方出て戰ふ事あるべからずと下知せらる忠次直政、細川等が軍せんとひしめくを見て、蹴ちらして棄てんと、はやりしを、德川殿御下知あつて秀吉が小松寺山の軍勢、二重堀を越え來らざらんほどは敵いかにさわぎ亂るゝとも味方かゝつて戰ふべからずと制し給ひければ、互に小川を隔てゝ、日旣に午の時ばかりに至れども、矢軍をだに、せざりしに、また御使來て先陣引返すべしと有しかば、御方一勢〱、小牧山へ引て返りしとなり、
  1. — 지면 그대로. 高天神城 함락은 통설 天正9年(1581) 3月 22日로, 앞의 「同き八年」에 이어지는 「十月」과 맞지 않는다
秀吉頓て軍勢を分ち、陣々を守らせ、みづから八萬餘騎を引て歸り玉へば、德川殿も、忠次に小牧を守らせて、六月の十二日清洲の城に入玉ひ、同廿二日蟹江の城を攻めらる、忠次大手を攻やぶれば、榊原入替て、終に城をぞおとしける、去程に秀吉多くの軍勢を從へ、此處彼處打出て戰ふこと、凡十一箇度、盡く德川殿のために打破られ、信雄卿に中直りす、さらばとて德川殿忠次に清洲を守らせ、小牧尾幡に軍勢をこめ、參河國に引返させ玉ひしかば、秀吉其隙を伺ひて、伊勢國に發向す、忠次かくと告ければ、德川殿また清洲の城に至り給ふ秀吉是を聞き玉ひ此人のかく助けん程は、信雄を失ふ事叶ふ可らずとて、終に北畠殿に見參し、此卿を賴み、於義丸殿を養君となし、また御妹を濱松へ參らせ玉ひしかば、德川殿も都に上り給ふべしと議せらる、忠次此事ゆめ〱然るべからず、東西再ひ軍起るとも、京家の者共が軍、心にくき事候はず、幾度も打破り參らすべし、關白へまるらせ玉はん事、ひらに思召とゞまらせ給ふべきにて候と、言葉を盡して止め申てければ、御一門の人々を先として、譜代相傳の御家人等、みな此義に同ず、德川殿聞召て、かた〱が申止むる所神妙なり、家康思ふ子細あり、たとへ關白に欺かるゝ事ありとも、悔ゆべからず、まづ人の个程までに、我心を取らんには、など其心には答へざらん、且は家康關白と中違うて、東西軍起るとも、かた〱が心を一つになして、戰はんに、何程の事かあるべき、さりながら、勝たんと思ふ軍にもまけ、負けんと覺ゆる軍にもかつ、勝負かならずと定め難きは、凡そ戰のならひなり、抑我朝二百餘年に及ひて、四海盡く亂れて、人民一日も安からず、然るに今、世既にやゝ靜ならんとするに臨み、東西又軍起て、月を累ね年を積まば、我國の事は、扨おきぬ、天下また亂れて、人民悉く亡び失はん事、尤不便の至りなり、されば、罪なうして失はれん者共の爲に、家康壹人が代て死せん事、なんぼうゆゝしき事ならずや、かた〱も、此旨を存知して、よしなき罪作りせんと思ふべからずと仰ければ、忠次かしこまり、さほどに思召し極められん上、何事をか、更に申べき、さらば御上洛あるべしとぞ申ける、關白殿御上洛あるべしと聞き玉ひ、御家人等が心を安んぜんがためなりとて、大廳を岡崎に下し給へば忠次德川殿の御供して上洛す、御見參の事終り、やがて歸らせ玉ひけり、
大久保が物語に詳なり、德川殿天下をしろしめさるべき御德、此時の御言葉に見えたりけりと、古き人申しゝなり、又諸記に、大政所の下り玉ひし故に、御上洛ありといふ誤れり、のぼらせたまふべしと聞えしかば、大政所下り給ひしとなり、其後秀吉忠次に屋敷を賜ふ、是を櫻井屋敷といふ、又江州にて千石の地授けられしといふなり、
明れば、天正十五年正月信濃の眞田、小笠原が、關白殿へ參りけるに、忠次相倶して、大坂に趣き、今年十一月十五日、德川殿忠次が家に入らせ玉ひ、終日の饗宴を催したり、忠次男五人あり、嫡子小五郞家次、二男本多縫殿助康俊、本多の家をつきぬ、三男小笠原左衞門佐信之、小笠原掃部助信嶺か養子、四男松平甚三郞久恒、福釜の家をつきぬ、五男因幡守忠知、女子二人、姊は松平外記伊昌が妻なり、初め今川殿に質としてまゐらせし所なり、妹は牧野右馬允康成が妻なりけり、忠次齡かたむきて、嫡男に家ゆづり、入道して一智と號し、年積て七十二歲、慶長元年十月廿八日にぞ卒しける、一說に、忠次京都櫻井の家に卒、年七十歲なりといふ、家忠日記をみるに忠次の事をしるす事、天正十五年十一月家へ入らせ玉ひしに終る此後は家を子息にゆづりしと見えき、其嫡子小五郞家次、天正十七年十一月德川殿の供奉して上洛し、叙爵して宮內大輔となさる、關白殿、來年北條を追討あらんと議定ありしかば、十二月十三日、家次仰を承て、三河國の人々に、軍勢の催促す、明る十八年二月、家次先陣の第一にて、長澤二連木の人々と、下總國臼井の城を降し、今年關東に移り玉ひしかば、上野國碓氷の城1を領す、三萬石慶長五年、關が原の合戰には、後陣をぞ固めける、一說此時中納言殿の御供して眞田表に戰ひしといふ、同き九年上野國高崎の城に移る、五万石十年四月將軍宣旨の拜賀の日、家次、御太刀の役に候す、當時の名譽、武家の面目とぞ聞えける、家次後に左衞門尉とめさる、大坂前後の戰に、將軍家の先陣にて、宗徒の大名十人を隨て馳せ向ひ、首を獻ること三十一、元和二年、越後國高田の城に移りて、十万石同き四年三月十五日、五十五歲にして卒す、其子宮内大輔忠勝家を繼く、初め慶長十四年正月廿三日叙爵して、大坂兩度の御陣に隨ひ、父が跡を繼きし後、元和五年三月信濃國松代の城に移り、同き八年出羽國鶴岡の城を給ふ、十四万石寛永二年九月從四位に叙す、正保四年十月十七日、五十四歲にて卒す、嫡男攝津守忠當、父に繼き舍弟等に所領を分つ、年四十四歲にて、萬治三年二月九日に卒す、其子左衞門尉忠治繼く、
  1. — 지면 그대로. 酒井家次가 天正18年에 받은 것은 下総国 臼井城(3만 석)이다. 같은 문장 앞에도 「下總國臼井の城を降し」라 적으므로 동음 지명 「上野國碓氷」은 저본 오기로 보인다