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○眞田昌幸父子三人始末の事

卷之十七 第1話 · 段落 18 · NDL 1078984 270コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

眞田安房守昌幸は、海野小太郞幸氏二十一代の末なり。父海野彈正幸隆信州眞田に居て、眞田氏と稱す。武田家の臣となる。嫡子源太左衞門信綱は長篠にて討死す。二男武藤喜兵衞昌幸と云ふ。長篠の後高坂彈正五ヶ條の諫を申しける。其一條にて、昌幸に兄の家を嗣がせられけり。父の幸隆後一德齋と號す。昌幸信玄の近習にて、十八の歲川中島にて鎗を合せたり。天正十年勝賴諏訪に陣し、四方より敵來りし時、昌幸、吾妻の城に籠られよ、と言ひけれども、長坂長閑其謀を用ひず。勝賴郡內に赴きて死して國亡びぬ。北條氏政兵を出して甲府を攻取らんとする時、昌幸德川家に屬し、依田信蕃と碓氷嶺に陣して北條の粮道を塞ぐ。東照宮北條と和平し給ひ、上野の沼田を以て、甲斐の都留、信州佐久二郡に換へらるべし、と約あり。是より前昌幸沼田の城を攻取りて要害の地とせり。眞田に上田を與へ、沼田をば氏政に渡すべき由仰せ出さる。上田は元より信玄以來眞田が居所なり。昌幸、我德川家に功有りと雖も、僅に上田と沼田を賜はりぬ。賞甚薄しと思ひて辭し申しけるは、沼田は賜り候地に非ず。吾鋒にて取り得たれば、故無くて人に與へん事叶ひ候まじ、と申しけり。豐臣家に屬すべき由を云ひ送りし其折柄、秀吉、東照宮の上京無き事を怒りて此を悅び、密に上杉景勝に、眞田に力を合せよ、と下知せられしかば、千六百の兵を眞田が許に援とす。東照宮、眞田は奸謀有る者なり、と元より憎ませられける上、無禮の答を怒らせ給ひ、大久保七郞右衞門忠世、鳥居彥右衞門元忠、平岩七之介親吉、柴田七九郞康忠を將として、七千の兵を以て上田を攻めさせらる。昌幸、城より一里許隔てたる加賀川を敵渡る時、半途を打つべしと思ひけるに、甲州の浪人板垣修理、假令敵の半途を討つて利有りとも、三遠の物師共なれば、敵の後陣二の見の勝有らん、と云ひければ、昌幸、尤なり、とて城に近き砥石の城に嫡子信之、矢津の砦に矢津但馬を籠め置き、寄手必ず染屋平より寄るべし。弱弱と引受けて不意に突いて出でん、との謀なり。又城外小野山の蔭に鄕民を伏置きけり。寄手進みて町口に押入り、惣郭の內橫小路に柵を喰ひ違ひに結ひて簾を懸け、其蔭に伏兵を置き、鐵炮を打懸くる。昌幸思ふ處に引受け、城門三方より一同に打つて出でたれば、寄手支へ兼ねて崩れしかば討たるゝ者多し。砥石、矢津よりも切つて懸り、鄕民も揉合ひたれば、大久保十四五騎にて踏止り戰ひて加賀川まで引取つたり。鳥居は高き道を退きけるを、砥石の兵喰留めんとて慕ひ來れば、五六町許の間に討たるゝ者數多なり。大久保は鳥居が敗軍を見て忠世唯一騎引返し、弟平介忠孝後彥左衞門黑き物具に銀の揚羽の蝶の指物にて、乘附けて馬より飛トり1、鎗を提げて扣へたる處に、敵押懸る中にも眞先なる兵を突伏せたり。忠世が返すを見て、松平七郞右衞門を始め引返し來れり。平介は小高き處に蹈堪へたれば眞田も進み得ず。其間僅十間許に過ぎざれども忠世少しもひるまず。日置五右衞門忠世が陣の前を通らんとす。平介、其こそ敵よ。三つ卷を附けざるぞ、と云ひけるに、日置如何誤りけん、味方ぞと心得て、日置五右衞門なり、と名乘りて通る處を、足立善一郞政定鎗押取り鞍の前輪を突く。五右衞門が從者鎗を取直し、善一郞を突く。平介が前を馳通らんとすれば、平介又突きけれども、從者鎗を揃へて平介に向ふ。其間に五右衞門乘拔けし處を、氣多甚六郞遁さじと追ひさまに股の端を突く。其時五右衞門振顧り、川中島の加勢と思ひて危ふかりし、と言ひて駈拔けたり。忠世、平岩が陣に往きて、敵は疎に追懸來れり。我跡を詰められなば切つて懸り候べし、と言へ共、親吉、敵小勢なれども必定近所に伏兵有るべし、とて進まず。其間に昌平城2に引入りけり。此日酒井與九郞殿して敵の首を取りければ、其日の一の功名なり。翌日忠世、康忠、眞田が枝城丸子を攻めんと千曲川を渡るを、眞田見て海野町へ押出し、八重原を一騎打に相働く。忠世、鳥居、平岩に、後を詰めば敵の中を取切り討取るべし、と言へ共同心せず。眞田引取りたり。味方は八重原に陣し、眞田も城を出でて陣し、足輕軍有り。芝土居を築き柵を結ひ、苅田働に日を送る。斯くて濱松より井伊直政、大須賀康高を始として五千餘援兵たり。されども秀吉の下知により、景勝大軍にて眞田の後卷するとの聞え有り。諸將相謀りて陣拂す。昌幸が次男左衞門佐信仍信仍或本にノブタカと訓ず何れが是なるを知らず附け慕はんとす。大返に返して軍すべき物色を昌幸見て、信仍を制して追はざりけり。諸將歸陣の後昌幸大息吐いて、德川殿は誠の英雄なり。加勢を以て城を攻むる色を顯したる故、昌幸其謀に陷り、防ぐにのみ心有りて、夜討朝駈の志夢にも無かりしなり。斯く謀りて不意に引取りたる事、吾計の及ぶべきに非ず、と云ひけり。其後東照宮太閤と和平なりしかば、景勝の加勢の賴みも無く、信州甲州の人々を眞田賴みて、秀吉に申して德川家に歸り屬すべき旨を申せば、御許容あり。天正十五年正月七日、昌幸、信州深志の小笠原右近イ京大夫貞慶と共に駿府に參りて、東照宮に謁し奉る。
  1. 誤植 — 底本「飛トり」。振り仮名「とびお」から「飛下り」の誤植か(「下」の上の横画欠け)。
  2. 誤植 — 底本「昌平」。文脈から「昌幸」の誤植か。
東照宮も昌幸が武勇侮り難しと思召して、嫡子信之を本多忠勝が婚3にせん、と仰せられしに、昌幸、夫は聞き謬ならん。本多が女を信之が妻にせん事更に望みに候はず、と申す。東照宮此事を太閤に御物語有りしに、忠勝が女を養うて、今は我女なりといはせられよ、と計られじかば4、東照宮使を以て、云々なりと仰せ送られしかば、果して昌幸聞受けたりと云ふ。
  1. 誤植 — 底本「婚」。「婿」の誤植か(続帝国文庫本は「婿」)。
  2. 誤植 — 底本「計られじかば」。濁点は誤りか(「計られしかば」)。
斯て北條征伐の事起れり。天正十六年八月北條氏政の使として北條氏規聚樂に參り、氏政上京すべしと雖も、上野の沼田は、天正十年德川殿と和平の時相渡さるべきを、眞田恣なる事を申して北條家志を失ひ候。早く安房守に、彼地を北條に渡すべき旨を示されなば、氏政上京せん、とぞ申しける。秀吉聞き給ひ、往年の事審に知らざる事なり。北條家に土地の事能知る者を上京せしめよ、とて氏規に暇給はりぬ。翌年坂部岡越中融成入道江雪大坂に赴きければ、秀吉事の由を聞き給ひ、眞田が上州の內の所領三分二竝に沼田の城を北條に渡し、其換地には德川家より眞田に與へらるべし。同所三分一名胡桃城とも、眞田已前の如く領すべき由江雪に命ぜられけり。斯くて眞田が方より沼田を武州鉢形の北條氏邦に渡し、氏邦其從士猪俣能登範直を沼田の城代とせしに、田舍人にて得失の辨無く、名胡桃の城を眞田が領せし事を怒り謀つて城を奪ひ取りたり。昌幸太閤に訟へしかば、太閤、北條は沼田を得ば上京すべきと約しながら、遲緩を怒られし上に此事を聞きて、氏政を征伐せんと志決して、天正十八年秀吉師を出して小田原に打向はる。東山道の先陣前田利家確氷嶺5に至り、上杉景勝は坂本に至れば、名胡桃を奪ひ取りし猪俣は戰はずして城を捨て逃落ちければ、眞田信之後伊豆守城に入る事を得たり。昌幸は去る天正十三年以來秀吉の恩顧を得しかば、大谷吉隆に申して次男信仍を秀吉の許に人質に出しけり。其後石田兵を起すの時、眞田父子三人は奧州に打向ふ途中に、石田が使來りて、秀賴公の爲に旗を擧げ候。同心せられなば信州に故主君の地甲斐を添へて參らせん。僞無き證に、とて起請文を送りけり。昌幸素より德川家に二心有れば、さらば引返すべし、といふ。信之、是は然るべからず。內府智勇勝れたる人なり。爭か容易く討滅さるべき。思ひも寄ざる事なり、と諫むれども、昌幸聞入れず。
  1. 誤植 — 底本「確氷嶺」。振り仮名「うすひ」から「碓氷嶺」の誤植か。
又一說に、本多と親しみ厚く候へば、石田に與し難き由を信之申せしかば、弟の信仍女房の好に引かれ、父に弓引く樣や候、と申す。又信之、西國に與せられなんに必ず軍敗れ候べし。其時父と弟との危難に逼らんを助けて、家の亡びざる樣にせん、と言ひければ、信仍、西國の軍敗れなば、父も又信仍も同じく戰場の土とならんに、何として助けさせ給ふべき。德川家先年兵を出し上田を攻めし時、景勝加勢候ひし其報禮などか無かるべき。其比秀吉公和平を取行ひ給ひ、武名を世に擧げしかば、豐臣家の恩淺しと言ふべからず。唯疾く石田に同心有りて然るべし。凡家の亡ぶべき時、人の死すべき時至らば、潔く身を失ひ候こそ勇士の本意なるべけれ。何條穢く命生きて、家の亡びざる樣にせんと云ふ事や候、と爭ひければ、信之怒つて、汝が詞不禮なり、とて旣に切つて捨つべく見えしかば、信仍、否々只今爰にて首を刎ねられ候事は許されよ。信仍は豐臣家の爲に身を失ひ申さん志なり、といへば、昌幸聞きて、兄弟の爭各其理有り。太閤世を過させられし後此事の起れるも、必ず秀賴公の爲にする忠に非ずと信之は思へるならん。信仍が言ふ處吾思ふ所なれば、我と共に引返すべし。信之は是より心任にせよ、とて別れしといへり。又一說、昌幸云ひけるは、會津より宇都宮に至りて七日路なれ共、日の岡の徑より三日の行程なり。景勝と謀を合せ前後より攻めたらんに、伊豆守俄に裏切するならば、德川殿を容易く討取るべし、と言ひけれ共、信之、內府は勇略百萬の人にも超えたり。味方利有らん事存じも寄ず、とて遂に兵を引分けて參りければ、東照宮、信之を召して、安房守が片手を折りつる心地するよ。軍に勝ちたらば必ず信州を賜はるべき後の證ぞ、とて御刀の縧の端を斷ちて賜はりけるといへり。
昌幸は、引返して沼田の城にて信之が妻に對面せん、と云ひけるに、信之の北の方聞きも敢ず、旣に父子仇となりて引分れ給ひしかば、父にて御座し候とも、城に入奉りてま見え申さん事思ひも寄らず、とて本丸の門を固めさせ自ら物具取出し、女房共皆刀を側に置きたり。厩に葦毛の馬有るべし。厨の土間に繋げ、とぞ下知せられける。昌幸聞きて、吾過なり。人々能く聞き候へ。日本一と世に云へる本多中務が女なりけるよ。弓取の妻は斯くこそ有るべけれ。此婦人有らんには眞田が家危からじ、と言ひけるとぞ。昌幸夫より須河に至り、高間越に懸りて上田に返りけり。台德院殿木曾より登らせ給ふ時、御使を以て、禍を招かイ阿るゝにてこそあれ。降參せよ、と仰せ有りしに、昌幸聞きて、秀賴の爲に城を守り候。攻められば一矢仕らん、と答へしかば、又御使にて、石田、小西等己が威權を恣にせんが爲に斯る企に及べり。豐臣家の恩を蒙りし人々皆背きたるを以て知るべし。猶降參無くば信之に腹切らせ、其後城を攻破るべし、と仰せ送らせられしに、昌幸聞きて、太閤恩深き人々の背き候は、此人々心の同じからざる故なり。旣に子にて候信之、父と相違ひたるにて知召さるべし。信之に腹切らせられんとや。親の子を愛するは誰も同じ事に候へども、信之イ伊豆守父と共に城に有らば、同じ枕に討死すべし。信之を助くべきに非ず、と答へ申せしかばさらば攻めよ、とて陣を寄せらる。其日は百姓の家に込入りたりしに、榊原康政、眞田今夜必ず夜討すべし、とて物見を出し、篝火を透間無く焚かせたり。果して信仍夜討せんと支度したりけれども、康政の設によりて夜討はせざりけり。斯くて明れば九月六日押寄せ給ふ。淺見藤兵衞只一人隍際に進みける處に、打懸くる鐵炮に朱に十二引の差物打裂れ、其身も犇と折敷き伏して味方の續くを待つ。小栗治右衞門大音あげ、淺見功名せうとて深入し不覺なせそ、と呼はるを聞き、淺見立上り、汝に先をさせんや、と言うて門に附く處に、門を開きて討つて出で、淺見、小栗、得たりと鎗を合するに、左右の出屏より打出す鐵炮雨の降るが如し。淺見が從者虎若と言ふ童剛の者にて、刀を抽き鎗の穗先を潛入りて敵の足を薙拂ふ。淺見も痛手を負ひ倒れしを、虎若足を取つて引提げ持歸りけるに、淺見、小栗をも助けよ、と云ふ。虎若聞きて、主人の先途の爲にこそ來りたれ。他人を何にかせん、と云うて搔負うて引退く。淺見、差物を叩き落されたりと覺ゆ。取りて來らずば生甲斐無し、といふ。虎若、逃ぐるとて指物を落さば恥なり。鎗を合せて落したるは恥に非ず、と言ひて念なく歸りけり。城兵山本淸右衞門、依田兵部堤の上に上るを見て、寄手三十騎許馬を並べて喚いて駈寄せ、犇々と馬より下りて進み行く。齋藤左大夫、山本、依田、前につと出で名乘りけるを見ると均しく、御子神典膳、辻太郞介渡し合ひ入亂れて鬪ふ。御子神は類無き早業にて、鎗を翳し堤の中にひらりと飛入る。朝倉藤十郞、中山助六、戶田半平、鎭田市左衞門、太田甚四郞、齋藤久左衞門競ひ懸りて鎗を合す。依田朱塗の物具にて戰ひけるが、深手負ひて倒れしを、御子神、辻、依田を一刀づつ切つたりけり。山本も鎗を打折り、痛手負ひながら依田が屍を肩に懸けて引退く。寄手追詰むれば城兵切つて懸るを、中山鎗を合せ、太田弓にて指詰め引詰め射たりしかば、門に追込みたり。
太田後善大夫といふ。或時士一人太田が許に來りて、吾は眞田家の浪人にて候。上田の軍の時相手に成りたる者なり。其時射られし矢を携へ來れり、と云ひしかば、太田、斯る事は必ず側に聞く人の慥なる有りて證にすべし、とて呼入れず。近き邊に笹瀨左大夫とて武功の有りし人を呼寄せて、彼眞田が士に對面す。其人申しけるは、上田にて出合ひたりと。善大夫怪みて、一番に出たるは、髭の多く有りし大男なりき、と言へば、彼の士、能く見屆けられし。それは眞田荒右衞門と申す者なり、と答ふ。其次の男は太りたる男、といふ。夫は何の佐仲と申す者なり。さて其次なり、といふ。否々夫は云々の男なりき、と言へば、夫は無極と申す者なり。偖て分明に見定められし、と言ふ。偖て其次我なり、と言へば、太田、如何にも然なりき、と言へば、其時此の矢にて射られき、とて矢を取出す。彼の者は細野權イ格之介といふ者なり。其後善大夫申して、細野を尾張の組附にしたりとかや。
されども鐵炮を打出す事霰の飛ぶが如く、寄手の先陣地に犇と跪きてけり。本多正信下知して城をば責めず。昌幸と信仍は中の手に出づるを、牧野右馬允康成、同新次郞忠成馳せ向ふ。其間二町許も有らんに、眞田父子八十四人の手鼓を打つて高砂の謠をうたふ。榊原、憎き奴かな、といふ儘に眞先に馬を乘出す。其兵二千許後を取切らんとすれば、渡邊半藏も鐵炮を打ち懸けて進みしかば、松澤五右衞門、敵の附入心許なく候。疾く城に入らばや、と諫めて、眞田高砂の謠を終らずして引入りけり。康政、康成押續いて寄せけるを、正信、輕々しう攻めん事然るべからず、と制しければ引返す。戶田、辻等の七人を上田の七本鎗と世に申すなり。戶田は銀の髑髏の指物、辻は白き四半に辻といふ字を墨にて書きたり。信仍箭文を射させ、二人の武勇を稱しけり。此中山は極めたる馭法の上手なりとかや。
後に依田を太刀附けし一二の論あり。辻は、依田朱塗の頰當せし、といふ。御子神は、依田朱塗の冑著て頰當は無し、といふ。牧野右馬允從者を馬工郞にして上田に遣し、樣々にして山本に會ひ、其時の事を問ふ。山本が曰く、此論有るべき事なり。誰人にもせよ頰當を掛けずと言ふ人初太刀なり。依田は頰當掛けざりき。急しき場の鎗下なれば、血に染みたるを朱塗の頰當と見たるなるべし、と云ひしを聞きて歸り、牧野に語りしかば、御子神一の太刀にきはまりけり。
斯くて力攻にせられば人死傷せん。早く美濃に赴かせ給ふに如じ、と評定有り。森右近大夫忠政を上田の押とし、台德院殿圍を解かせ給ふ。榊原殿せしに、眞田遙に見て、榊原が有樣吾を侮れり。追駈けて食止め一軍せん、と云ひけるに、眞田が許に年老たる法師武者の謀由々しき有りけるが、康政程の者爭で其謀無かるべき。古の兵法に、歸師勿㆑逐といふ事の候、とて止めて追はざりけり。東照宮、榊原は必ず懸り引にすべき者なり、と仰せられしが、後に召して御尋有り。榊原承り、御大將は城に遠き山に懸りて引き給へ、と申して、臣は城下を眞直に殿仕りたり、と申せしかば、東照宮、汝必ず然らんと思ひしに、果して違はざりけり、とぞ仰せられける。石田が軍敗れしかば眞田父子を誅せられん處に、信之、此度父と引分れて參り候は、父を助けん爲に候。假令大國を賜ひ候とも何にか仕らん。あはれ信州を以て二人の命に換へ申し度き旨を申されけり。
信之、井伊直政、榊原康政に就きて、父を助け給はり候へ、と申す。東照宮聞召し、許容有りし、と仰せられければ、台德院殿に申すに、信之父を助けんと言ふは理なり。されども安房守に遮られて關ヶ原の軍に後れたり。必ず安房守を誅すべし、とて御許されの色無かりしかば、伊豆守是を承り、又兩人に就きて、仰の趣申すべき詞無し。斯く有らんと存じ父を諫めしかども、用ひざれば力に及び候はず。只一つ志す所の候。安房守を誅せられんより先に、先づ斯く申す伊豆守に切腹を仰せ出され候へかし。御敵の子なれば左有るべきと世の人も存ずべし。必ず父在世の中に伊豆守を誅せられよ、と云ひも終らぬに、康政、心得て候。房州御赦免の事は康政が申上げて事能くせん。昔の義朝には大に異る豆州かな、と言ひて其旨を申せしかば、東照宮、台德院殿も聞召し入れられて、眞田父子許されしといへり。
信之に信濃十二萬石の地を賜り、昌幸、信仍は御赦を蒙り、城を出でて紀州高野の麓九度山に引籠る。信仍常に父と兵法を談じて、天下の時勢を計りけり。昌幸は六十七歲にて九度山に死す。其後大坂の亂起りしに、秀賴、信仍を招かれけり。此比世の中騷がしかりければ、紀州は淺野長晟の領地なれば、橋本山の百姓に、眞田大坂に行く事有らん。押止めよ、と下知せられしかば、用心嚴うしたりけり。信仍橋本山の百姓數百人を九度山に招き、假家數多設けて酒宴してもてなし、上戶下戶を言はず强ひたりし程に、醉伏して前後も知らず。其時百姓の乘り來りし馬に色色の物取附け、百人許打立ちて紀伊川を涉り、橋本山より木のめ路に懸り、大坂にぞ行きたりける。道々にて百姓は皆九度山に行きぬ。殘りし女童共信仍が鎗眉尖刀の鞘を脫し、鐵炮に火繩を挾み、もし押止むる者有らば忽ち討殺すべき體を見て詮方無し。九度山に醉伏したる者共、夜明けて見れば眞田は無し。如何に、と問へば、昨日云々の有樣にて河內路に赴きたり、と言ふ。欺かれしと悔めど力及ばず。信仍大坂に至り、只一人大野修理治長が家に行く。信仍其比薙髮して傳心月叟と言ひけり。大野が士信仍とは知らず。何國の修驗者ぞ、と問ふ。信仍、大峯より參り候、といへば、折節修理は居合せず、とて番所の側に呼入れ置きぬ。
若き士共刀劍の物語するとて信仍に向ひ、汝が刀見せられよ、と言へば、山伏の犬威に候、とて出すを抽きて見れば、心も詞も及ばれず。さらば脇差を見ん、とて是を見るに、是も同じ事なれば、驚いて中子を見るに、脇差は貞宗刀は正宗なり。人々怪み合へり。其後信仍彼若き士に逢ひて、刀の目利は上りたるや、と戲れしに、皆赤面せしとぞ。
修理歸りて信仍を見て大に悅び、疾くも參られ候よ、と禮儀正しくして書院に招き入れもてなしぬ。秀賴、速水甲斐守時之を使として黃金二百枚賜はり、軍兵の事は軈て下知有るべし、となり。旣に東西の軍起るに及びて、東照宮、如何にもして信仍を降參させばや、とて、叔父隱岐守信尹を以て此旨仰せられ、信州にて一萬石賜はり候ひなんとなり。信仍同心せざれば、又信州一國賜るべし、と仰せ出されけり。信仍怒つて、義は人の道なり。秀賴に二心有らん事存じも寄らず候。重ねて斯る使をせられなば存ずる旨有り、と罵りて信尹を追返しけり。
或說に、信尹に向つて、天下に天下を添へて賜るとも、秀賴に背きて不義は仕らじ。汗の出づるとて肌を脫ぎ小姓に拭はせて、軈て首を關東の兩御所の前に出すべき、とて打笑ひ居たりとなり。○元禎按ずるに、昌幸德川家に服從し奉りて後、關ヶ原の亂に及んで背きたる事二度に及べり。此義と言ふべからざるにや。東照宮寬仁に御座しませし故に再犯の罪を宥めさせ給へり。信仍其寬仁に何を以て報い候や心得られず。豐臣家は眞田數世の君に非ず。若君に不㆑背の義を論ぜば、武田家亡びて後、世を捨てて山中に隱れずば如何にか有るべき。眞田が論ずる處の義道に叶へるとは言ふべからず。世の人眞田を以て賞稱する事甚し。故に愚論を述ぶるに及べり。
大坂冬の陣に出丸に有りて防ぎけるが、大敵の責めし時守固かりけり。和平に及びて、信仍、越前忠直に仕へし原隼人貞胤は、古りし好有りて招きもてなしけり。原はもと武田家の士也酒盃數獻の後、信仍鼓を打ち子の大介に舞はせて興じけるが、信仍云ひけるは、吾必ず討死せん。思ひの外に存命へて再會する事よ。されど遂には軍に及ぶべし。落ぶれて九度山に隱れ居しが、一方の大將となりて候豐臣家の恩譬へん樣無し。彼に見ゆる鹿の角の立物の冑は眞田家に傳へたる物とて、父安房守讓り與へて候。重ねての軍には必ずきんずる物なれば見置きて賜り候へ。又命は惜からねども大介が思ひ出もなく、空しく戰場の土とならんは不便に候、と語りければ、貞胤も淚を流し、軍に臨む者誰か生きて歸らんと思ふべき、と答へしに、信仍白河原毛なる馬に六連錢を金もてすりたる鞍置かせ、庭にて乘り廻し原に見せて、城は壞たれたれば、天王寺口に駈出でて馳廻り、下知して思ふ程軍せばやと存ずれば、此馬の可愛く候、と語りて、又酌醉ひて別れけり。果して和平敗れしかば、元和元年五月大坂にて軍評定有り。後藤は大和口の先陣にて平野に陣しぬ。五月六日の夜、信仍、毛利豐前守勝永と二人打連れて後藤が陣に行き、明けなば國分の山を踰え、三萬の軍兵を一陣にして關東の旗本に一文字に駈入り、軍神も照覽候へ。兩御所の首を取るか三人の首を實撿に供ふるか。二の中よ、とて最期の盃せり。後藤は六日の夜半に打出で道明寺口にて討死しけり。毛利は藤井寺に陣を進めし處、早後藤が軍破れ、關東の軍兵二三十萬も有らん、洪水の溢れ來るが如し。眞田を待てども未來らず。眞田は兄の伊豆守と同心して裏切するよ、と人々罵りける所に、住吉海道より赤旗押立て馬煙蹈み立てて來るを見れば、金の蠅取の馬印にて眞田なれば、毛利が陣も勇み合へり。信仍、譽田の方に進めば、偖は愈二心よ、と人々怪む所に、信仍堤の上に上り鐵炮を進めて、伊達政宗の先陣片倉小十郞に向ひて討て懸る。信仍眞先に進みて鬪ひしが片倉が陣敗北す。逃ぐるを追うて敵數多討取りたり。片倉金の鐘の差物にて麾を取り盛り返す。政宗の旗本の騎馬の鐵炮も進み來る。奧州は聞ゆる馬多き所なれば、良い馬を撰びて若き士に乘せ、馬上より鐵炮をつるべ立てさせ、敵ひるむ所を馬の首を揃へて忽ち乘破り、駈亂して追崩す軍略なり。未だ其間相去る事遠かりしかば、信仍、いざ疲れたるに、息をつけ冑を脫げ、と下知しければ、皆冑を脫いで休み居たり。敵稍近附きしかば、信仍、さらば冑を著よ、と言ふ程こそあれ、冑の緒をしめ鎗の穗先を揃へて敵に向ふ。政宗の鐵炮箕手なりに成りて懸り來り、雨の降る如く打懸けたり。信仍眞丸に成りて、とても遁れぬ所よ。一足も引くな者共、と下知し、ひた〱と跪きて聲々に念佛を唱へ、力を合せて堪へたるに、信仍大音上げ、一寸も引くな爰に死ねや、と下知して鎗を取つて懸れば、士卒一同に立上り喚いて鎗を打入れたれば、政宗の軍兵大に破れ、一支も無く崩れけり。此を世に眞田が天王寺口の軍とて、大軍の騎馬鐵炮に打勝つたる有樣を傳へて稱しけり。信仍士卒を立固め靜々と毛利が陣に來る。大介今年十六歲、組討して取つたる首を鞍の四方手に附け、手負ひたるが、流るゝ血をも拭はず馳來るを毛利見て、天晴父の子なり、と感じけり。信仍毛利が手を取り淚を落し、時刻遲く後藤が討死せし故、謀空しく成りぬるも、豐臣家の運盡きぬる所なり、といへば、毛利、今日大敵に打勝たれし武勇の有樣、古の名將にも優りたり、とぞ云ひける。斯る所に秀賴の黃母衣の使番乘來り、疾く城中に引籠り候へ、と下知せられしに、信仍は猶赤旗押立て、今一軍せんと冑の緒をしめ直し、勇氣殊に嚴しく見えたりけり。水野日向守勝成此を見て、いざ軍せん、とて政宗に勸めらるゝに、同心の色無し。越後少將忠輝此處に陣を進められしが、此も眞田が陣に懸らんと冑を著給ふ。政宗の士大將片倉小十郞忠輝の前に來り、日暮に近く軍危からん、と言へば、早雄の士共、いざ懸りて討捕らん。弱敵を剩すまじ、といふに、片倉、夫は僻事にて候。日本國を敵にして軍する大坂の者共を弱敵と言ふべきや。片倉が組の士三十人の中二十九人は討死したり。是見られよ、とて欛まで血に染みたる刀の曲りたるを見せてけり。越後の士大將花井主水も、如何すべき、と軍奉行玉虫對馬に問ふ。玉虫、敵は二の身の勝を心掛候。懸りて軍に利候まじ、と言ひてためらひけり。
忠輝、大坂を突くべきやと評定決せず。篠瀨左大夫、足輕をかけあひしらひて食止むべし。軍をさせられよ、と勸む。玉虫、僅なる足輕を以て如何にして敵の大軍を食止むべき、といへば、篠瀨、踏の無き事は申さじ。六尺の大男も、足の裏に踏ぬきすれば行步暇取るものなり。人數少しとてつけられぬ事や有る、といふ。王虫6、地の利知らぬ所にて日も暮れたり。行懸の合戰は危き物なり、と押止む。小野能登守は、判官殿三草山を越えての合戰は、知らぬ國の夜軍ならずや、といふ。皆川老甫、小野能登守、花井主水、篠瀨左大夫は、駈らん、と云へども、玉虫對馬、林平之丞は押留めて論決せざりし中に、大坂方靜々と引取りしとも言へり。
  1. 誤植 — 底本「王虫」。振り仮名「たまむし」から「玉虫」の誤植か(点が欠ける)。
眞田が陣には手々に扇を擧げて招き、何とて軍し給はぬぞ、と聲々に呼はりけり。猶懸らざりしかば信仍靜に兵を收め、關東武者百萬も有れ、男子は一人も無し、と大音に罵りて引取りければ、東照宮、玉虫に、林道春に吳子が六國の風を說きたる章を讀ましめられ、玉虫を逐出されけり。此玉虫は、甲斐の武田家にて物師なる故軍奉行たりしに、如何なる故ならん後れたりき。明る七日の軍に信仍兵を出せしが、秀賴の出馬を勸めんため子の大介を城に返しけり。大介、今年十六に及ぶまで片時も側を離れ候はず。只今討死の際に逃げたりと人のいはんも口惜しく候。去年母上に別れ奉りし後文の便に、存命へて相見えんは願はしけれ共、合戰の場にて必ず父上と同じ枕に討死せよ。苟にも名こそ惜しけれと誡められし、と言ひければ、信仍、城中へ歸れと言ふも秀賴公の御爲なり。父子ともとても遁るべきや。軈て冥途に逢ふべきを、暫の別れを惜むこそ口惜しけれ。疾城に參れ、とて取附きたる手を引放せば、大介名殘惜げに父を見て、さらば冥途にてこそ、とて引返す。信仍、大介を見送りて落つる淚をおさへ、昨日譽田にて痛手負ひしが、弱る體の見えざるは、よも最後に人に笑はれじ。心安し、と言ひけるとかや。斯くて大坂の軍敗れしかば信仍討死しけるを、首をば越前忠直の士西尾仁左衞門取つたりしに、誰とも知らず。眞田信尹馬に乘りて打通り、此を見て、其冑は見知りたるぞ。眞田左衞門佐なるべし。口を開いて見よ。向齒二枚闕けて有るべき、と言ひしに、信尹が詞の如し。偖こそ左衞門佐とは知りてけれ。彼冑は原に物語して見せたるなり。弓箭取る身は思ひ出の詞兼て云ひ置べき事にこそ、と言合へり。大介は城中に入り、秀賴に從ひて蘆田曲輪の矢倉に籠りて父の事を尋ねけるに、討死せしと聞きて夫より物も言はず。母の形見に賜はりける水晶の珠數を首に懸け、秀賴の自害を待居しかば、速水甲斐守大介に向ひて、組討の武勇逞しき振舞して、痛手負はれしと聞ゆ。和平にて君も城を出させ給ふべし。眞田河內守信吉の方へ人を添へて送るべし、と言へ共些とも動かず。寄手矢倉を取卷きし時、速水戶口に立出でて大介が有樣を語り、武勇の血脈恐しき者なり、と云ひしとなり。終に大介も矢倉の中に死して、父子同じく豐臣家の爲に亡びたり。